も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと『自分の罪の姿』も自分を見て、憫《あわ》れむように微苦笑している。それを見ると又、いくらか気が落付いて来る……これが吾輩の所謂《いわゆる》自白心理だ……いいかい……。
 ……それから今一つ、やはり極く頭のいい……地位とか信用とかを持っている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方法の中《うち》でも最も理想的なものの一つとして今云った自白心理を応用したものがある。即ち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠を悉《ことごと》く自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬ事が、云わず語らずの中にわかる……という紙一枚のところまで切詰《きりつ》める。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と、論理の焦点の見損ないから生ずる極めて微細な……実は『無限大』と『零《れい》』ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、殆ど絶対の安全地帯に立つことが出来る。そうなったら最早《もう》、占《し》めたものである。一旦、この錯覚が成立すると、容易に旧態《もと》に戻すことが出来ない。事実を明らかにすればする程、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人である事を主張すればする程、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚に引っかかる度合いは、相手の頭が明晰であればある程、深いのだ……いいかい……。
 ……この『犯罪自白心理』の最も深刻なものと『犯罪隠蔽心理』の最も高等なものとが、一緒になって現出したのが、この調査書類なのだ。正に、これこそ、吾輩の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料であろうと思われるのだ……いいかい……そうして更に……」
 ここまで云って言葉を切ったと思うと、正木博士は不意に身軽く、如何にも自由そうに廻転椅子から飛降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後《うしろ》に組んで、一足一足に力を入れて、大|卓子《テーブル》と大|暖炉《ストーブ》の間の狭いリノリウムの上を往復し初めた。
 私は矢張《やっぱ》り旧《もと》の通りに、廻転椅子の中に小さくなって、眼の前の緑色の羅紗《らしゃ》の平面を凝視していた。その眩《まぶ》しい緑色の中に、ツイ今しがた発見した黒い、留針《ピン》の頭ほどの焼け焦《こ》げが、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えて来る……大きな口を開《あ》いてゲラゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。
「そうして更に恐るべき事には、この書類に現われている自白と、犯罪の隠蔽手段は、一分一厘の隙間《すきま》もなく吾輩をシッカリと押え付けておるのだ。……即ち、もしもこの書類が公表されるか、又は司直の手に渡るかした暁には、如何に凡《ぼん》クラな司法官でも、直ぐに吾輩を嫌疑者として挙げずにはおられないように出来ているのだ。……のみならず……万一そうして吾輩が法廷に立つような事があった場合には、仮令《たとい》、文殊《もんじゅ》の智慧、富楼那《フルナ》の弁が吾輩に在りと雖《いえど》も、一言も弁解が出来ないように、この調査書は仕掛けてあるのだ。そのカラクリ仕掛の恐ろしい内容を今から説明する……いいかい……吾輩がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げずにおられなくなった、その理由を説明するんだよ」
 こう云ううちに正木博士は大|卓子《テーブル》の北の端にピタリと立止まった。両腕を縛られているかのようにシッカリと背後《うしろ》に組んだまま、私の方を振返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間に、その鼻眼鏡の二つの硝子《ガラス》玉が、南側の窓から射込む青空の光線をマトモに受けて、真白く剥《む》き出された義歯《いれば》と共に、気味悪くギラギラピカピカと光った。それを見ると私は思わず視線を外《そ》らして、眼の前の小さな焼焦《やけこ》げを見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもうアトカタもなく消え失せていた……と同時に私の頬や、首筋や、横腹あたりが、ザワザワザワと粟立《あわだ》って来るのを感じた。

 正木博士はそのまま、黙って北側の窓の処まで歩いて行った。そこでチョイト外を覗くと直ぐに大|卓子《テーブル》の前の方へ引返して来たが、その態度は、今までよりも又ズット砕《くだ》けた調子になっていた。これ程の大事件を依然として馬鹿にし切って、弄《もてあそ》んでいるような、滑《なめ》らかな、若々しい声で言葉を続けた。
「……そこでだ。いいかい。まず君が裁判長の頭になって、この前代未聞の精神科学応用の犯罪事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事、兼、被告人という一人二役を兼ねた立場になってこの事件の最後の嫌疑者、即ち『W』と『M』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」
 私の直ぐ傍に立佇《たちど》まった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳《がいいちがい》した。
「……まず……呉一郎が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作に陥れられた当時の事から話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎とモヨ子との結婚式の前日には『W』も『M』も姪の浜から程遠からぬこの福岡市内に確かに居た。……Mはまだ九州大学に着任匆々で、下宿が見付からなかったために、博多駅前の蓬莱館《ほうらいかん》という汽車待合兼業の旅宿《はたご》に泊っていたが、この蓬莱館というのはかなりの大きな家《うち》で、部屋の数が多い上に、客の出入りがナカナカ烈しい。おまけに博多一流で客|待遇《あしらい》が乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャンと喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明《アリバイ》の胡魔化《ごまか》しには持って来いの場所だ。……ところでこれに対するWはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立て籠《こも》って勉強ばかりしている。仕事の忙がしい時は内側から鍵をかけていて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴が塞《ふさ》がっている時は、決して外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。こうしたWの神経質は、小使や友人は勿論の事、新聞記者仲間でも評判になっている位だから、これも現場不在証明《アリバイ》の製造には最も便利な習慣だ。
 ……サア又、一方に……呉一郎が、結婚式の前日に出席する筈になっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や、時刻は、新聞に気を付けておればキットわかる。呉一郎が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、著しい習慣だから、前以て調査しておれば直ぐに気が付く……そこで石切場に働いている石切男《いしや》の一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二三日か一週間も休ませて、その隙《すき》に仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌《コレラ》とか、赤痢《せきり》とかいう流行病の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈には頗《すこぶ》る便利な訳だと思う。とにかく微塵《みじん》も狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。
 ……次に当日、呉一郎が福岡市の出外《ではず》れの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃《たんぼ》に挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背恰好までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴方《あなた》の亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方がお幼少《ちいさ》いうちに、貴方の事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事がありました。そのお約束を果すために、斯様《かよう》な処でお待ち受けしていたのです……テナ事を云えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中《うち》に置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、最早《もう》、明日《あした》からは貴方が一軒の御家庭の主人公になられると承《うけたまわ》りましたから、御返却《おかえ》しに参りました。つまり貴方が、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれなければならぬ品物で、貴方の遠い御先祖に当る或る御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これに就ては色々な恐ろしい噂や伝説が絡《まつ》わり付いている程の御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように云い触《ふ》らしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴らしい名画と名文章なのです。嘘だと思われるならば今、ここで御覧になっても宜しい。その上で御不用だったら今一度、私が御預りしても構いません。あすこの高い岩の蔭なら、誰も来はしないでしょう……と云ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に云いまわして好奇心を唆《そそ》るのが一番だと思うね。果せる哉《かな》、呉一郎は美事に蹄係《わな》に引っかかった。岩の蔭で夢中になって絵巻物を繰り展げているうちに、スラリと姿を消して終《しま》うくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。
 ……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方《のうがた》事件に移ると、あの当夜も、WとMは、たしかに福岡市に居たことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、久方振りでこの大学の門を潜って、当時、精神病学教授として存命中であった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会した後《のち》、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやはり蓬莱館に泊る事にした。またWもその当時から今の春吉《はるよし》六番町の広い家に、飯爨婆《めしたきばあ》さん一人を相手の独身生活をやっているんだから、日が暮れてからソッと脱け出して、朝方帰って来る位、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明《アリバイ》を胡魔化《ごまか》すには持って来いの処に居た訳だ。……それかあらぬかその晩の九時頃に一台の新しい箱自動車《セダン》が、曇り空の暗黒を東に衝《つ》いて福岡を出た。乗っている人物は炭坑成金らしい風采で「ちょうど直方へ連絡する汽車が無くなったところへ、急用が出来たものだから止むを得ない。一つ全速力で直方まで遣《や》ってくれ」と云って……」
「……エッ……そ……それじゃあの呉一郎の夢遊病は……」
 正木博士は私の前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。
「……ウソさ……真赤な嘘だよ」
「……………」
 私の脳髄の全部が忽ち煽風機《せんぷうき》のような廻転を初めた。身体《からだ》が自然《おのず》と傾いて一方に倒れそうになったのを、辛《かろ》うじて椅子の肘掛けで支え止めた。

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