なった。
「……そ……そ……それは怪訝《おか》しいじゃないですか先生……犯人の事をお留守にして、他の事ばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。ねえ先生……」
「……………」
「……ねえ先生……たとい悪戯《いたずら》にしろ何にしろ、これ程に残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかに在り得ましょうか。……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかも解らなくなる。又、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳上の罪までも胡魔化《ごまか》せるかも知れないというのですから、これ位アクドイ、残酷な悪戯《いたずら》は又と在るまいと思われるじゃないですか先生……」
「……ウ……フン……」
「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えても怪訝《おか》しいじゃないですか」
「……ウ……フン。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎か、僕かの頭を回復さして、犯人を指示《ゆびさ》させるより他に方法はないのでしょうか……先生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」
「……ないよ……」
正木博士は乞食を断るように、面倒臭そうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。私はグイと唾液《つば》を嚥込《のみこ》んだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的というのは何でしょうか」
「……ウ……ウン……」
「ほんとうの心から出た親切か……又は悪戯《いたずら》か……恋の遺恨か……何かの咀《のろ》いか……それとも……それとも……」
私はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。
博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いて私を見た。心持ち蒼い顔に、黒い瞳を凝然《じっ》と据えたまま静かに部屋の入口を振返った……が、やがて又おもむろに私の方へ向き直ると、やおら椅子の上に居住居《いずまい》を正した。
その黒い瞳《め》は博士独特の鋭い光りを失って、何ともいえない柔らかい静けさを帯びていた。その態度にも今までの横着な、図々しい感じが全くなくなっていた。見る見る一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何ともいえず淋しい、悲しい心持を肩のあたりに見せている。その態度を見ているうちに私の呼吸がだんだんと静まって来た。そうして吾にもあらず眼を伏せて、頭を低《た》れてしまったのであった。
「……犯人は俺だよ……」
と博士は空洞《ほらあな》の中で呟《つぶや》くような声で云った。
私は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑を漾《ただよ》わしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。
……私の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ初めたような……。
私はヒッソリと眼を閉じた。わななく指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたく濡れている。その耳元に正木博士の悄然《しょうぜん》たる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならば止むを得ない。一切を打明けよう」
「……………」
「何を隠そう。吾輩は夙《と》うから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明かに認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」
「……………」
「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方《のうがた》で起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密な人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に這入るように、故意に呉一郎が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」
正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私は又もビクリとさせられたが、それでも顔を上げる事が出来なかった。正木博士が吐き出す一句一句の重大さに、圧《お》しかかられたようになって……。
「……その犯行の目的というのは外でもない。呉一郎を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母の手によって姪の浜へ連れて来させるにある……モヨ子は姪の浜小町と唄われている程の美人だから、とやかく思っている者が、その界隈《かいわい》に多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来の所在地で、大部分の住民は多小に拘わらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎とモヨ子の縁組は、九十九パーセントまで外《はず》れる気遣いがないのだから、この実験を試みるにも、又は、その跡を晦《くら》ますにも、この姪の浜以上に適当な処はない訳である」
「……………」
「……だから第二回の姪の浜事件というのも、決して神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計劃通り、或る人間が、石切場附近で呉一郎の帰りを待伏せて、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方と、姪の浜の二つの事件は、或る一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計劃されたものである。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と、興味とを併《あわ》せ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機……すなわち被害者、呉一郎が或る大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古《こうこ》の学術実験を行った……と云えば、吾輩より以外《ほか》に誰があるか……」
「ありますッ……」
私は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカ――ッと充血した。全身の骨と筋肉が、力に満ち満ちて戦《おのの》いた。愕然としている正木博士の鼻眼鏡を睨み付けた。
「……ワ……ワ……若林……」
「馬鹿ッ……」
という大喝が木魂《こだま》返しに正木博士の口から迸《ほとばし》り出た。同時に黒い、凹《くぼ》んだ眼でジリジリと私を睨み据えた。……がその真黒い眼の光りの強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天を衝《つ》くばかりの勢《いきおい》であった私は一たまりもなく慄《ふる》え上った。ヨロヨロと背後《うしろ》によろめく間もなくドタリと椅子に尻餅を突いた。その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けられたまま……。
「……馬鹿ッ……」
私は左右の耳朶《みみたぼ》に火が附いたように感じつつ、ガックリと低頭《うなだ》れた。
「……無考《むかんが》えにも程がある……」
その声は私の頭の上から大磐石《だいばんじゃく》のように圧《お》しかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底に籠《こも》っていた。
私は又、何故ともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら……。
「……これ程の恐ろしい実験を、ここまで突込んで行《や》り得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうという事は誰でも考え得る事じゃないか。又それがわかればその人間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されない事も、直ぐに考え付く筈じゃないか。……何という軽率さだ」
「……………」
「況《いわ》んや本人は既に……一切を自白している」
「……エッ……エッ……」
私は愕然として顔を上げた。
見ると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か知らず、或る神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、私は又も頭を垂れてしまった。
「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」
……スラリ……と冷めたいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。
「……君はまだ犯罪の隠蔽心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておき給え。人間の智慧が進むに連れて……又は社会機構が、複雑過敏になって来るに連れて、こんな恐ろしい犯罪心理が、有触《ありふ》れたものと成って来るに、きまっているんだから……よろしいか……」
「……………」
「……この調査書が如何に恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、如何に深刻な、眩惑的な、水も洩らさぬ魔力をもって吾輩に、この罪を引受るべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」
私は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固って行くのを感じた。両眼の視線は又も、眼の前に横たわる緑色の羅紗《らしゃ》に吸い寄せられて、動かす事が出来なくなった。
その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。
「……仮りに或る人間が一つの、罪を犯したとすると、その罪は、如何に完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消す事が出来ないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、止むを得ないので、誰でも軽蔑する位よく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿[#「記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿」に傍点]なるものは、常に、五分も隙《すき》のない名探偵の威嚇力[#「名探偵の威嚇力」に傍点]と、絶対に逃れ途《みち》のない共犯者の脅迫力[#「共犯者の脅迫力」に傍点]とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際《まぎわ》まで、人知れず犯人に附纏《つきまと》って来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言っても宜《い》い位、その恐ろしさが徹底している。世俗に所謂《いわゆる》、『良心の苛責』なるものは、畢竟《ひっきょう》するところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外《ほか》ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺して了《しま》うより外に方法はない……という事になるのだ。
……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいい程、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段が又、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、生憎《あいにく》な事に、この『記憶の鏡』という代物《しろもの》は、周囲を暗くすればする程、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればする程、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかもそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をした揚句《あげく》、やり切れなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうするとその鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれる事になる……こんな事が度重なるうちに、とうとう遣り切れなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ』……と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。
……又は、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苛責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』
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