れども、君はどうしても過去の記憶を思い出さないのだから仕方がない。きょうの実験はこれで中止だ。つまり君の頭が、そこまで回復していないのだから、この上、実験を続けても無駄だと吾輩は……」
「しかし……それじゃ最前のお約束に……」
「約束はしたが仕方がない。お互いに無駄骨を折るよりも、今すこし君に休養してもらってから、今一度実験をやり直す事に……」
「待って下さい……チョット……それじゃ先生は、その神秘の正体をスッカリ御存じなんですね」
「そうさ。知っているからこそ、君と関係があると云うんじゃないか」
「……じゃ……それをスッカリ僕に話して下さい」
「……イケナイ……」
正木博士は、こうキッパリと云い切ると、葉巻を横ッチョに啣《くわ》え直した。腕を組んで反《そ》り返りつつ冷やかに笑った。すこしムッとしている私の顔を見ながら……。
「……何故って考えて見給え。この事件の神秘の正体を明かにするためには、是非とも呉一郎を発狂させた犯人の名前を明かにする必要があるだろう。ところがその犯人の名前は、君自身か、呉一郎か、どちらかが過去の記憶を回復すると同時に思い出したのでなければ、真実《ほんもの》とは云えないだろう。たとい法医学者の若林博士が、如何に動かすべからざる確証を掴んでいるにしても、又は吾輩自身がその犯人と、犯行の現状を確認しているにしても、君か、もしくは呉一郎が万一過去の記憶を回復した際に、その犯人を否定してしまえば何にもならないじゃないか。姪の浜の石切場で、私に絵巻物を見せてくれた人はこの人じゃありませんと云い張れば、それっ切りの千秋楽じゃないか。そこがこの事件の普通の犯罪事件と違うところだからね。……だから吾輩は、そんな無価値な事を饒舌《しゃべ》るのは御免だ」
私は、われ知らず長大息させられた。自分の判断力が見る見る迷妄に陥って行くのを自覚しながら……。
「……まだ解らないかい。……それじゃ、もう一つ深刻な事実を説明してやろう。いいかね。……この事件で、是非ともその不可思議な犯人の正体を突止めなくちゃならぬ当面の責任者は、誰が何といっても法医学者たる若林だろう。仮令《たとい》、警察当局の方では、単なる呉一郎の発狂から起った事件として放棄しているにしても、精神科学応用の犯罪を研究する学者として、ここまで深入りして来た以上カンジンカナメの点を放《ほ》ったらかしたまま、後へ退《ひ》く事は、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、否《いや》でも応《おう》でも、この事件の真犯人を有耶無耶《うやむや》に葬り去る事が、どうしても出来ない立場におるのだ。……然《しか》るにだ。……一方に吾輩の立場はどうかというと、必ずしもそうでない。そうした若林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。……いいかい……それよりも吾輩の専門上、当然の責任として、全力を挙げて来たのは君自身、もしくは呉一郎の『頭の回復』であったんだが、併しそれにしてもその犯人の名前とか、顔とかを是非とも思い出させなければならぬ責任とか、必要とかいうものは全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何等の差支《さしつか》えがないのだからね。……呉一郎の発病の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場から立派に説明が付く事だし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっている訳だからね。それを若林が躍気《やっき》になって、是非とも犯人を探し出してもらいたいと云ってヤイヤイ騒ぎ立てるために、ツイこんな事になってしまったんだが……とにかく吾輩は、そんな訳で、犯人なぞに用はないんだ……ハハン……」
こう云い放った正木博士は、悠然と椅子の上に両肱を張った。呆れている私を眼下に見下しながら葉巻の煙を輪に吹いた。
私は、その如何にも学者然たる冷やかな風付《ふうつ》きに、云い知れぬ反感を唆《そそ》られない訳に行かなかった。そればかりでなく、その人を愚弄しておいて突放すような態度に対して、たまらない不愉快を感じ初めたので、私は思わず座り直して咳払いをした。
「……そ……それあ怪《け》しからんじゃないですか先生。……いくら学者だってアンマリ冷淡過ぎはしませんか」
「冷淡過ぎたって仕方がない。よしんば吾輩が大負けに負けて、若林の加勢をして、その犯人を探し出したにしたところが、そいつをフン縛る法律が在るか無いか……」
私は眼の中が何となく熱くなって来るのを感じた。云いたい事を一ペンに云って終《しま》おうとして、云えなくなったような気がして……。
「……法律……法律なんてものは、どうでもいいんです。……その犯人を突止めて八裂《やつざき》にでもしなければ、浮かばれない人間がイクラでもいるじゃないですか。八代子だって、モヨ子だって、又あの呉一郎だって……僕も連累《まきぞえ》を喰っているんなら僕もです。……何の罪も科《とが》も無いのに、殺される以上の残虐を受けているじゃないですか」
「……フン……それで……」
と色も味もなく云い棄てたまま正木博士は、自分の吹いた煙の行衛《ゆくえ》をウットリと見送った。私は自分の魂を吐き出すような気持で云った。
「……それで、僕の魂がもし、この身体《からだ》を脱け出せるものなら、僕は今でも、或る一人に乗り移ってその人間の記憶に残っている犯人の名前を怒鳴ってやります。白昼の大道で、公表してやります。死ぬが死ぬまでその犯人に跟随《くっつ》いて行って、殺す以上の復讐をしてやります」
「……フーン。左様《さよう》願えたら面白いがね。しかし誰に乗り移ろうと云うんだい」
「誰って……わかり切ってるじゃありませんか。犯人の顔を直接に見知っている呉一郎がいるじゃありませんか」
「ハッハッハッ。こいつは面白いな、遠慮なく乗り移るがいい。しかしマンマと首尾よく乗り移れたらお手拍子喝采どころじゃない。吾輩の精神科学の研究は全部遣り直しだよ。魂が『乗り移る』とか『取り憑《つ》く』とか『生れ変る』とかいう事実は、その本人の『心理遺伝』の作用以外の何ものでもないというのが、吾輩の学説の中でも、最重要な一箇条になっているんだからね。……フン……」
「それは解っています。しかし仮令《たとい》、先生の方で犯人に用がなくとも、若林先生の方では用があるでしょう。若林先生が、貴方にこの調査書類を引渡されたのは、その最後の一点を、呉一郎の過去の記憶の中から取出して頂きたいばっかりが目的じゃなかったですか」
「それはそうだ。百も承知だ。今朝《けさ》から吾輩と若林が、君をこの部屋に引張り込んで、色々と試みた実験も、帰するところ、同じ目的一つのために外《ほか》ならなかったんだが……しかし吾輩は最早《もう》、これ以上にこの事件の真相を突込んで行きたくないのだ。その理由は、犯人の名前が判明《わか》ると同時にわかるんだがね」
正木博士は又も長々と煙を吹き上げて空嘯《そらうそぶ》いた。私はその顎を睨みつつ腕を組んだ。
「それじゃ、僕が勝手にこの犯人を探し出すのは、お差支えありませんね」
「それは無論、君の自由だ。御随意に遊ばせだが……」
「ありがとう御座います。それじゃ済みませんが、僕を此病院《ここ》から解放して下さい。ちょっと出かけて来たいのですから……」
と云ううちに私は立上って、卓子《テーブル》の端に両手を支《つ》いてお辞儀をした。しかし正木博士は平気でいた。お辞儀を返そうともしないまま悠々と椅子に踏反《ふんぞ》り返って、葉巻の煙を思い切り高々と吹上げた。
「出かけるって、どこへ出かけるんだい」
「どこだか、まだ考えていませんけど……帰って来る迄には事件の真相を根こそげ抉《えぐ》り付けてお眼にかけます」
「フフン。抉り付けて胆を潰《つぶ》すなよ」
「……エッ……」
「この絵巻物の神秘は、お互いに破らない方がよかろうぜ」
「……………」
私は思わず立竦《たちすく》んだ。そういう正木博士の態度の中には、私を押え付けて動かさない或る力が満ち満ちていた。……曠古《こうこ》の大事業……空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、嘘か本当か自殺の決心までさせられながら、それを片《かた》ッ端《ぱし》から茶化《ちゃか》してしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるように私は又、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居住居《いずまい》を正した。
「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか先生……」
正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落して、グズグズと椅子の中に屈《かが》まり込み初めた。短かくなった葉巻を灰落しの達磨《だるま》の口へ突込んで、背中を丸めて、卓子《テーブル》に頬杖を突いたが、その時にジロリと私を見た狡猾《ずる》そうな眼付と、鼻の横に浮かんだ小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振《けぶり》を見せた。
私は思わず身体《からだ》を乗り出した。身体中の皮膚が火照《ほて》るほどの異状な昂奮に包まれてしまった。
「いいですか先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手な処でその名前を発表しますよ。そうして呉一郎を初め、モヨ子、八代子、千世子の仇敵《かたき》を取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、又、犯人が如何なる人間であろうとも驚きませんが……いいですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人《きちがい》地獄に陥れられて、一生涯、飼い殺しにされているなんて……僕にはトテモ我慢が出来ないのですから……」
「ウン……まあやって見るさ」
正木博士は如何にも気のなさそうにこう云った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた、一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。
私は今一度座り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。
「……いいですか先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮りにこの犯人が僕でないとすればですね。まさか村の者の云うように、この絵巻物がひとり手に弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に落ちるような事は、有り得る筈がないでしょう」
「……ウフン……」
「……又……伯母の八代子と、母の千世子も、呉一郎をこの上もなく愛して、便《たよ》り縋《すが》りにしている女ですから、こんな恐ろしい云い伝えのある絵巻物を呉一郎に見せる筈はありますまい。雇人《やといにん》の仙五郎という爺《じじい》も、そんな事をする人間ではないようです。……お寺の坊さんは又、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があると判ったら却《かえ》って隠す位でしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者がある筈です」
「……ウフン。自然、そういう事になる訳だね」
正木博士は変な粘《ねば》っこい口調で、不承不承にこう云った。それからチョット眼を開《あ》いて私を見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなく又、もとの通りにピッタリと閉じた。
私は一層|急《せ》き込んだ。
「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当りが、調べてあるんですね」
「……ないようだ」
「……エッ……一つも……」
「……ウ……ウン……」
「……じゃ……その他の事は、みんな念入りに調べてあるんですか」
「……ウ……ウン……」
「……何故ですか……それは……」
「……ウ……ウン……」
正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたまま私は唖然と
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