観念が呉一郎の頭の中で、次第に一つの焦点に統一されて、余程、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えても解らないが、いずれその中《うち》に解るだろう』というような、一種の諦らめに似た安心が付いて来たらしく見える。……というのは一箇月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなり非道い憂鬱状態に陥っていた。食慾が非常に減退して排泄の具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧来《もと》以上になっている事が、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあのとおり、ステキに良《い》い栄養状態で、精神状態も頗《すこぶ》る明朗になったらしく、アンナにニコニコしている訳なのだ。
 ……そうして昨日《きのう》まで部屋に閉じ籠もっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段落のところまで落付いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭を擡《もた》げて来た性慾の刺戟が、以前の変態にまで高潮して来たので、又もあの鍬を振廻しに出て来たのか……という事は、もう暫く模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎の精神状態の回復はここいらで、又、一転機を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」
 私はこんな言葉や笑い声を、耳には慥《たし》かに聞いていた。……窓の下で又も、何やら唄い出している舞踏狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心に大|卓子《テーブル》の燃え上るような緑色を見詰めていた。
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……如何なる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探って見よ……
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 と云った正木博士の言葉を頭の中で繰返しつつ……。その時に正木博士の言葉が途絶《とだ》えて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げてみると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。
「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていた事が解るだろう。同時に、吾輩のこの解放治療の実験が、如何に素晴らしい、学界空前の……」
「ちょっと待って下さい」
 私は右手を揚げて、滝のように迸《ほとばし》り出て来る正木博士の言葉を遮《さえぎ》り止めた。得意に輝く骸骨ソックリの顔を仰ぎつつ、廻転椅子の上に座り直して問うた。
「……ちょっと……待って下さい。……しかし……先生の、そうした治療の実験は、純粋な学術研究の目的でなさるのですか、それとも……」
「……無論……むろん純粋の学術研究を目的としているんだよ。精神病の治療というものはこうするものだ……という事を、洽《あま》ねく全世界のヘゲタレ学者たちに……」
「マ……待って下さい。そうじゃありません。僕がお尋ねしているのは……」
「……何だ……」
 正木博士は不満そうに眼の球を凹《へこ》ました。肩を一つ揺り上げて椅子の背に反《そ》り返った。
「僕がお尋ねしようと思っている事は、こうなんです。呉一郎を発狂さした暗示が、この絵巻物だって事は、まだ誰も知らないでいるんですね」
「……ア。その話はまだ、しなかったっけね。無論、誰も知ってやしないよ。司法当局の奴等だって知らないも同然だよ。テンデ問題にしていないんだからね」
 正木博士は又、ツルリと顔を撫でまわして、鼻眼鏡をかけ直した。
「最前からも話した通り、この絵巻物は、呉一郎の伯母の八代子が、土蔵の二階から取って来て隠していたのを、若林が睨んで捲上げて、そのまんま吾輩に引渡したものだから、若林と吾輩以外にこの絵を見た者は君だけだ。裁判所や警察の連中は、八代子が現場の机の上の、この絵巻物が置いてあった所に、自分の鼻紙を拡げておいたので、見事に一パイ喰わされている上に『迷宮破りの若林博士が、事件の真相の説明に窮して迷信を担《かつ》ぎ出した』と云って笑っているそうだ。たしかその当時の新聞の編輯余録といったような欄の中に、素破抜《すっぱぬ》いてあったと思うが……却《かえ》って仙五郎爺から巻物の話を聞いた村の者が、色んな事を云っているそうだ。一郎が夢のお告《つげ》を受けて石切場に行ったら、巻物が高岩の蔭に置いてあったんだとか、その時がちょうど日暮狭暗《ひぐれさぐれ》の逢魔《おうま》が時《とき》だったとか云ってね……又、そんな迷信を担がない連中は、誰かモヨ子に惚れ込んでいた奴が、叶《かな》わぬ恋の意趣晴らしに、古い云い伝えから思い付いて、一郎にコンナ悪戯《いたずら》をしかけたのが、マンマと首尾よく図に当ったんだとか何とか……」
「アッ……」
 と私は突然に叫んで立上りかけた。大|卓子《テーブル》の端に両手を突張って、穴の明くほど正木博士の顔を見た。正木博士も私の叫び声に驚いたらしく、吐きかけた煙を頬張ったまま、眼を丸くした。
 私の呼吸と胸の動悸が、見る見る息苦しく高まって来た。
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……わかった。わかった……正木博士が、何気もなく云ったらしい一言が、事件の真相らしいものをチラリと私の頭に閃《ひら》めかしてくれた……。
……私という人間は、一件記録の上には出ていないけれども、やはり呉青秀の血を引いた、呉一郎と瓜二つの青年に違いないのだ。
……二人の博士は、千世子が一人しか子を生んでいないという屍体解剖の結果によって、そんな事実の存在を否認しているようだけれども、事によると、それは私をこの実験にかけるための一つのトリックに過ぎないかも知れない。真実の私の過去は、やはり呉一郎と双生児《ふたご》で、幼い時に何かの理由で別れ別れになっていたその片割《かたわれ》かも知れないのだ。
……それが人知れず故郷に帰って来て、人知れずモヨ子を恋していた。或《あるい》は呉一郎と瓜二つなのを利用して、真物《ほんもの》の呉一郎に覚られないように絡み合って、奇抜巧妙な二人一役を演じながら所在《ありか》を晦《くら》ましていたものかも知れない。そうしてその中《うち》に、呉家に絡《まつ》わる不思議な因縁話を聞き知って、呉一郎の結婚式の前日に、こんな残虐を試みた。……それがこの私であったのだ。
……けれども、そうした私自身も、呉青秀の心理遺伝を受け継いでいたために呉一郎と同時にか、又は相前後して、同じような発狂をしたために、真物《ほんもの》の呉一郎と入れ違ってしまったのだ。ドッチがドウなのか本人同志にも解らなくなってしまったのだ。
……正木、若林の両博士は、それを見別けようとしているのだ。被害者と加害者を鑑別しようとして苦心しているのだ。
……そうだ。そう考えれば疑問の根本が立派に解ける。そうだ。それに違いない。それに違いない。それ以外に一切の不思議の解決方法がないではないか。
……ああ。私はやはりこの事件の神秘の正体であったか。……ああこの私が……。
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 一瞬間にコンナ事を考え廻らしつつ魘《おび》え、わなないている私の顔を、椅子の上に反《そ》り返った正木博士は依然として微笑を含みつつ眺めていた。そうして私の呼吸《いき》が鎮《しず》まりかけると間もなく、わざとらしい驚いた顔付きで問うた。
「……どうしたんだい。急に立上ったりして……」
 私は喘《あえ》ぎながら答えた。
「……もし僕が……呉一郎に……この絵巻物を……見せた本人……」
「アッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッ……」
 正木博士は、私の云う事を半分聞かぬうちに大袈裟《おおげさ》に吹き出して反《そ》りかえった。
「ハッハッハッハッ。君が加害者で、呉一郎が被害者か。これあいい。探偵小説なら古今の名トリックだが、多分そんな事になるだろうと思っていた。アッハッハッハッハッ。しかしだね。事実はその正反対だったら、どうなるかね、この事件は……」
「……エッ……正反対?……」
「ハッハッハッ。何も君が、そんなに遠慮して、加害者の憎まれ役を引受けなくとも、いいじゃないか。どうせ君と呉一郎とは瓜二つなんだから、御都合によっては吾輩の小手先一つで、加害者側へでも、被害者側へでも、どちらへでも廻せるんだがどうだい。どうせ同じ事なら、被害者側へまわった方が、この事件では得になるんだがドウダイ。アハアハアハアハ……」
 私はドシンと椅子に腰を卸《おろ》した。又しても何が何やらわからなくなったまま……。
「……どうも、そう一々泡を喰っちゃ困るぜ。……だから最初っから注意しておいたじゃないか。この事件は、よほど頭を緊《しっか》りさせて研究しないと、途中で飛んでもない錯覚に陥る虞《おそ》れがあると云って警告しといたじゃないか……吾輩は姪の浜、浦山の祭神、鶉《うず》の尾《お》権現《ごんげん》の御前《おんまえ》にかけて誓う。君はそんな浅薄な意味で、この事件に関係しているのじゃない。もっと重大深刻な意味で……」
「……でも……でも……それ以上に重大深刻な意味で関係が……」
「……出来ないと云うんだろう。ところが出来るから奇妙なんだ。クドイようだがモウ一度断っておく。吾々が住んでいる、この世界は現代の所謂《いわゆる》、唯物科学の原則ばかりで支配されているんじゃないんだよ。同時に唯心科学……即ち精神科学の原則によって何から何まで支配されている事を肝に銘じて記憶していないと、この事件の真相はわからないよ。……早い話が純客観式唯物科学の眼で見るとこの世界は長さと、幅と、高さの三つを掛け合わせた三次元の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に『認識』もしくは『時間』を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在吾々の住んでいる世界なんだ。その高次元の精神科学の世界で行われている法則は、唯物世界の法則とは全然正反対と云ってもいい位違うのだ。その不可思議な法則の活躍状態は、既に今まで君がこの部屋で見たり聞いたりして来た話だけでも、十分に察しられるだろう。……その中からこの事件の解決の鍵を探し出せばいいのだ。……否……この事件の鍵は、もうトックの昔に、君のポケットに落ち込んでいる筈だがね。ツイ今しがた慥《たし》かにその鍵を君の手に渡した事を、吾輩はハッキリと記憶しているのだがね」
「……そ……それはドンナ鍵……」
「離魂病の話さ」
「離魂病……離魂病がどうしたんですか」
「ハハハハ。まだわからないと見えるね」
「……わ……わかりません」
「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人居る事であろう。そのモウ一人の君自身のお蔭で、スッカリ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病のせいだっていう事をツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」
「だって……だって……そんな不思議な……馬鹿馬鹿しい事が……」
「ハッハッハッ。まだ離魂病が信じられないと見えるね。まあまあ無理もないさ。誰でも自分の頭が一番、確実《たしか》だと信じているんだからね。その方が結局、無事でいいし、お蔭で話の筋道もステキに面白くなって来る訳だから、そう慌てて結論を付ける必要もないだろうよ。呉一郎を発狂さした犯人はあらゆる人間の中の一人か、又は呉一郎自身か、それとも又、絵巻物が独り手に弥勒《みろく》様のお像から脱け出して活躍したものか……というこの三つを前提にしてユックリと考えた方がいい。そうして冷静な気持で君の過去を思い出した方が早道だ」
「……しかし……そんな神秘的な……不思議な事実が……」
 ここまで云いかけると私は、自分自身の考えに堪《た》えられなくなって言葉を切った。
「だから慌てるなと云うんだよ。今に神秘でも何でもなくなるから……」
「……でも……今っていつです」
「いつだか解らないが、きょうは駄目だよ。吾輩は君の記憶力を回復すべく、先刻《さっき》からの話の中《うち》に、かなり強烈な精神科学の実験を君に対して、かけ通しにして来たんだけ
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