も知れないが心理遺伝の発作と消滅の前後に、仮死状態や無意識、昏睡状態なぞいうものが伴う例は古来、幾多の記録や伝説に残されているので、この方面の専門的研究眼から見ると、少しも不思議な事ではないのだ。……すなわち昔はこれを『神憑《かみうつ》り』とか『神気《かみげ》』とか『神上《かみあが》り』とか称していたもので、甚《はなはだ》しいのになるとその期間が余り長いために、真実《ほんとう》に死んだものと思って土葬した奴が、墓の下で蘇った……なぞいう記録さえ珍らしくない。能楽『歌占《うたうら》』の曲の主人公になっている伊勢の神官、渡会《わたらえ》の某《なにがし》は三日も土の中で苦しんだために白髪《しらが》となって匐《は》い出して来た……なぞいうのは、そんな伝説の中でも最も有名な一つで、これを精神科学的に説明すると電気のスイッチを一方から一方へ切り換える刹那《せつな》に生ずる暗黒状態みたようなものだ。勿論その気持の変化の強弱、又はその人間の体質、性格等によって時間の長短の差はあるが、普通の場合、突然の驚きに似た卒倒と、それに引続く身神《しんしん》の全機能の停止があって後《のち》に、やがて息を吹き返すと、挙動が全く別人のようになる……すなわち心理遺伝の夢遊発作を初める……又はそうした発作を続けて来た人間が同じ暗黒状態の経過の後《のち》に、正気に立帰ったりするので、前に述べた狐憑きなどの場合は、夢中遊行発作の程度が割合に浅いだけに、無意識状態に陥る時間も短かいのが通例になっているのだ。……尚《なお》この仮死の間に於ける栄養作用や、新陳代謝の具合なぞの研究は、この呉モヨ子のモデルに依って、若林が充分な研究を遂《と》げている事と思うし、吾輩も他人の受売りなら多少出来るが、この話には直接の必要がないから略する。いずれにしても呉モヨ子が仮死状態に陥った直接の原因が、呉一郎の夢中遊行から来た暗示であったろうという事は、この若林の手に成った調査書類の文句が云わず語らずの中《うち》に表明している推論で、吾輩も双手を挙げて賛成せざるを得ないところだ」
「……………」
「なお又、これは吾輩一個人としての想像であるが、従来の呉家《くれけ》にはモヨ子のように、女性としての祖先である黛、芬、両夫人から来た心理遺伝をあらわした婦人の話が一つも残っていないようである。又、この絵巻物を警戒して、人に見せないようにした勝空《しょうくう》という坊さんも、呉家の中興の祖である虹汀《こうてい》も、この点には全然注意を払っていないようであるが、しかしこれはこの絵巻物が現わしている変態心理の暗示が、男性にだけ有効な事がわかり切っていると同時に、これに刺戟された男性たちの心理遺伝の発作が、相手の女性の心理遺伝に影響するような場合が全く想像され得なかったからだ。……ところが今度は場合が全く違う。違うにも何にもお互に他人同志ではない。千載の一遇と云おうか、奇蹟中の奇蹟とでも考えられようか、相手のモヨ子の姿が、その絵巻物の主人公と寸分違わなかったために、呉一郎の心理遺伝も、今までに類例の無い、殆ど完全に近い暗示に支配される事になった。従ってその一言一句、一挙一動の極く細かいところまでも、その当時の呉青秀の動作と寸分違わぬ感じを現わし続けたために、ゆくりなくもモヨ子の心理遺伝を誘発する事になったのではあるまいかと考えられる。これは余りにも奇怪に過ぎる事実の暗合を想像したものだが、しかし満更の想像ばかりではない。相当の根拠を持って云う事なのだ。……というのは外でもない。すなわちその調査書が証明している通り、呉一郎が死人同様になって倒れているモヨ子の頸部《くび》を、わざわざ西洋手拭で絞め上げたものとすると、この変態性慾は女を殺すばかりが目的でなかった事がわかる。死んでいても構わないから、女の首を絞め付けるという特異な快感を味《あじわ》いたい……という願望のために、コンナ余計な事をしたものと考える事が出来る。……どうだい。一千年|前《ぜん》にいた或る一人の男の変態性慾の心理遺伝が、こんなに細かいところまでも正確に伝わっているとしたら実に面白い研究材料ではないか」
「……………」
「……ところでサテ。こうしてこの発作が済むと、呉一郎は、その屍体をモデルにするつもりで腐るのを待った。それを土蔵の窓から伯母の八代子が覗いた時に、呉一郎は平気で振り返って『モウじき腐ります』云々と云った。この言葉には吾々が聞くと実に一千年間……一千里に亘る時間と空間の矛盾が含まれているんだが、彼、呉一郎自身にとっては、どちらも現在の、眼の前の事であった。彼がモヨ子を絞殺した目的が、そうした大昔の遠方の先祖である呉青秀の、超自然的な心理の満足以外になかった事は、モヨ子の屍体解剖の結果が、情交の形跡なしとあるのを見てもわかる……」
 一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、私は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であった。……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持になって……それに連れて全身がどことなく冷え冷えと汗を掻いているのに気が附いた。
 私はそのまま今一度ホッとして問うた。
「しかし……あの呉一郎の頭は……治りましょうか」
「呉一郎の頭かね。それあ回復するとも……吾輩には自信がある」
 こう云い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。私の顔を透《す》かして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。
「あの呉一郎の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」
 私は又しても呉一郎と同一人[#「呉一郎と同一人」に傍点]という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過を執《と》って回復して行きつつあるような正木博士の口吻《くちぶり》に、云い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔を拭いて又問うた。
「ハア……でも仲々困難でしょうね」
「ナニ訳はない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的に判然しておれば治療《なお》す方法もチャントわかって来る。殊にこの呉一郎みたように、原因のハッキリした精神異状が、治癒《なお》らなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」
「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」
「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁厭《まじない》とか御祈祷とかいうような非科学的なものじゃない。……つまり今まで話して来たように呉一郎は、黴毒《ばいどく》とか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂したんだ。すなわちこの絵巻物を見た後《のち》の呉一郎は、時間も、空間も、呉一郎も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極めた支那一流の変態性慾の刺戟と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚、倒錯観念ばかりで生きる事になったんだ。そうしてその変態性慾も亦《また》、呉青秀が一千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、遂《つい》にはただ『女の屍体が見たい』というような単純な、且つ、率直な慾望だけになっている事が、その解放治療場内に於ける夢中遊行の状態で察せられるようになった。……呉一郎の遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾……すなわち一千年前の呉青秀の怨霊の眼で見ると、世界中、到る処の土の下には、女の死体がベタ一面に匿《かく》されているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬が欲しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返す事になったのだ。
 ……こうしてその、時間も空間も超越した変態性慾の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、迫々《おいおい》と屁古垂《へこた》れて来た。人間の性慾の刺戟を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺戟液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されて終《しま》うのだからね。そんな性慾の刺戟をダンダン感じなくなって、唯、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮出して来る女の屍体の幻覚に釣られながら、喘《あえ》ぎ喘ぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性慾の怨霊が、消え消えになって来たお蔭で、その下から……ああ苦しい。遣り切れない。いったい俺は、どうしてコンナに非道《ひど》い労働を続けなければならないのだろう……といったような、正気に近い意識が次第次第に浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリとそこいらを見まわしては又、思い出したように仕事にかかるらしい気振《けぶり》が見えて来た。その潮合《しおあ》いを見て、吾輩が出て行って、その眼の底に在る疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底に在る理智的の意識力とをピッタリと合わせながら『その女の屍体が、土の底に埋まったのはいつの事だ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それに連れて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし初めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったような自己意識も、それにつれて頭を擡《もた》げて来たので、何となく不可思議な淋しい気持になった。悲し気に頸低《うなだ》れると、今まで大切に抱えていた鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎の治療順序の説明だ。狂人の解放治療というのは、そういう風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前に外ならないのだ。
 ……勿論こうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。些《すくな》くとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄な外科や内科の療法を応用したり、そいつが巧く当らなかった時には縛り上げたり、監禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今後の世界に於て行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖昧《あやふや》なもんじゃない。即ち精神というものの解剖、生理、病理の原則を、心理遺伝の学理に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放な一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行発作が、如何に推移し変化しつつ在るかを隅から隅まで看破しつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。
 ……ところで、話を前に戻すと、それから後一個月の間、呉一郎が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じ籠もってばかりいたのは、その間《かん》に色んな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにして次第次第に夜が明けるように蘇《よみがえ》りはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今はいつで、俺は何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、何のためにこんな処に閉籠《とじこ》められているんだろう』といった風にネ……それに連れて又、それに伴う色んな疑問や不可解が、雲の如く渦巻き起って、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大洩らさず病床日誌に記録させてあるから、それに就いて観察して見れば、その迷い具合が手に取る如くわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような
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