ッとさせられた位だからね……」
「……それは……そう……ですねえ……」
「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かを描《か》き添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると云っていい。そうして残った白い処へ諫言《かんげん》の文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い文化天子の胆《きも》っ玉《たま》をデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽く事を知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩いたのは何故か……黛夫人の遺骸が白骨になり終るのを、温和《おとな》しく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のままに後代に伝えて、呉家《くれけ》を呪いつくす程の恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのは何故か……一千百年後の今日、吾々の学術研究の材料として珍重さるべき因果因縁を作ったのは何故か……」
私は思わず溜息をさせられた。正木博士の話から湧出《わきだ》して来る一種の異妖な気分に魅せられて、何となく狂人《きちがい》じみた不可思議な疑いが、だんだん嵩《こう》じて来るのを感じながら……。
「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようで仲々重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考える程、わからなくなって来る筈だからね。ハハハハハ。だから吾輩は云うのだ。この問題を解くには、やはり呉青秀がこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ。その時の呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾の因《よ》って起ったそのそもそもを探って見なければならぬ……しかもそれは決して難かしい問題ではないのだ」
「……………」
「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っ剥《ぱ》いで見ると、その下から第一番に現われて来るのは燃え立つような名誉慾だ。その次には焦《こ》げ付くような芸術慾……その又ドン底には沸騰点を突破した愛慾、兼、性慾と、この四つの慾望の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性慾の固まりに過ぎなかった事が、ザラリと判明して来るのだ」
私は思わずハンカチで鼻を撫でた。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。
「こいつを具体的に説明するとこうであったろうと思う。すなわち……李太白が玄宗皇帝の淫蕩《いんとう》と、栄耀栄華《えいようえいが》に媚《こ》び諛《へつら》った詩を作って、御寵愛を蒙《こうむ》ったお蔭で、天下の大詩人となったのを見た呉青秀は、よろしい。それならば俺は一つその正反対の行き方でもって名を丹青《たんせい》、竹帛《ちくはく》に垂れてやろう。自分の筆力で前代未聞の怪画を描いて、天下後世を震駭《しんがい》させてくれようと思った……これがこうした若い、天才肌な芸術家にあり勝ちの、最も高潮した名誉慾だ。又、呉青秀自身の男ぶりと、天才に相応した名声に惚れ込んで、ゾッコン首《くび》っ丈《たけ》になっている新夫人から、身も心も捧げられた、新婚早々の幸福さに有頂天になった呉青秀は、僅か数箇月の間にあらゆる愛し方と、愛され方を味《あじわ》いつくしてしまった。この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待するかどうかしなければ、この上の感激は求められられられられないといった程度にまで高潮した慾求を、夜毎日毎《よごとひごと》に感じ初めて来た。これがやはり天才肌の青年……殊《こと》に頭の優れた芸術家なぞに在り勝ちの超自然的な愛慾、兼、性慾だ。……それから今一つ……嘆美の極はこれを破壊するにあり。そうしてその醜怪な内容をドン底までも曝露さして冷やかに観察するに在り……という芸術慾のドン詰まりと、この四ツの慾望が白熱的の焦点を作ってこの計画の中に集中されていた。しかもその強烈な慾求を呉青秀はやはり純忠純誠の慾求として錯覚していたものと考えられるのだが、そうした呉青秀の心理状態の裏面を、端的に解り易く説明しているものは、矢張《やは》りこの絵巻物の絵だ。腐敗して行く美人の姿だ」
私の眼の前に又しても最前の死美人の幻覚が現われ出て来そうになった。思わず両手で眼をこすると、鼻の先の絵巻物に視線を落して、表装の中に光っている黄金《こがね》色の唐獅子の一匹を睨み付けた。出て来る事はならぬ……というように……。
「……その死美人の腐敗して行く姿を、次から次へと丹念に写して行くうちに呉青秀は、何ともいえない快感を受け初めたのだ。画像の初めから終りへかけて、次から次へと細かく冴えて行っているその筆致《ふでつき》を見てもわかる。人体という最高の自然美……色と形との、透きとおる程に洗練された純美な調和を表現している美人の剥《む》き身《み》が、少しずつ少しずつ明るみを失って、仄暗《ほのくら》く、気味わるく変化して、遂《つい》には浅ましく爛《ただ》れ破れて、見る見る乱脈な凄惨《むご》たらしい姿に陥って行く、その間《かん》に表現《あらわ》れて来る色と、形との無量無辺の変化と、推移は、殆ど形容に絶した驚異的な観物《みもの》であったろうと思われる。その間《かん》に千万無量に味《あじわ》われる『美の滅亡』の交響楽を眼の前に眺めつつ、静かに紙の上に写して行く心持は、とても一国の衰亡史を記録する歴史家の感想なぞとは比較にならなかったろうと思われる。呉青秀は彼《か》の忠義も、この名誉も、愛慾も、性慾も、その芸術慾も、何もかもを打ち込んだ無我夢中の気持の中に、この快感と美感とを、どこまでも細かく筆にかけつつ、飽くところを知らず惜しみ味わったに違いない。そうしてその残骸が、最早《もはや》この上には白骨になるよりほかに変化の仕様がないところまで腐ってしまったのを見ると、決然筆を擲《なげう》って起《た》った。今一度、この快美感を味いたい白熱的な願望に、全霊をわななかしつつさ迷い出た。しかも……呉青秀のこうした心理の裡面には、その永い間の禁慾生活によって鬱積、圧搾された性慾が、疼痛《うず》く程の強烈な刺戟を続けていたに違いないのだ。その刺戟が疲労し切った、冴え切った神経によって盛んに屈折分析され、変形、遊離させられつつ、辛辣、鋭敏を極めた変態的の興奮を、呉青秀の全身に渦巻かせていたに相違ないのだ。そうしてその捩《よ》じれ狂うた性慾の変態的習性と、その形容を絶した痛烈な記憶とを、その全身の細胞の一粒《ひとつぶ》一粒|毎《ごと》に、張り裂けるほど充実感銘させていた事と思う」
寂《さ》び沈んだ、一種の凄味《すごみ》を帯びた正木博士の声は、ここで一寸《ちょっと》中絶した。
私は眼の前に在る獅子の刺繍が、視力の疲労のためにボーッとなるのを、なおも飽かず飽かず見詰めていた。そのボーッとした色の中に、たった一つ浮出している草色の一つに何故ともなく心を惹《ひ》かれながら耳を傾けていた。
「……こうして忠君も、愛国も、名誉も、芸術も、夫婦愛も、何もかも超越してしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟だけで、生きて、さ迷うていた呉青秀は、一年振りに帰って来た我家の中でこれも同じく一種の変態性慾に囚《とら》われている処女……義妹《いもうと》の芬氏《ふんし》に引っかけられて美事な背負《しょ》い投げを一本喰わされると、その強烈深刻な刺戟から一ペンに切り離されてしまった。最後の最後まで自分の意識を突張り支えていた烈火のような変態性慾が、その燃料と共に消え失せて、伽藍洞《がらんどう》の痴呆状態に成り果てた。そうしてその変態的に捩《よ》じれ曲るべく長い間、習慣づけられて来た性慾と、これに絡み付いている、あらゆるモノスゴイ記憶の数々を一パイに含んだ自分の胤《たね》を後世に残して死んだ……するとこの胤が又、生き代り死に代り明かし暮して来て、呉一郎に到って又も、愕然として覚醒する機会を掴んだ。呉一郎の全身の細胞の意識のドン底に潜み伝わっていた心理遺伝……先祖の呉青秀以下の代々によって繰返し繰返し味い直されて来た変態性慾と、これに関する記憶とは、その六個の死美人像によって鮮やかに眼ざめさせられた……すなわち、この絵巻物を見た後《のち》の呉一郎は、呉一郎の形をした呉青秀であった。一千年前の呉青秀の慾求と記憶が、現在の呉一郎の現実の意識と重なり合って活躍する……それが夢中遊行以後の呉一郎の存在であった。『取憑《とりつ》く』とか『乗移る』とかいう精神病理的な事実を、科学的に説明し得る状態はこの以外にないのだ」
「……………」
「……この深刻、痛烈を極めた変態性慾の刺戟の前には、呉一郎自身に属する一切の記憶や意識が、何の価値もない影法師同然なものになってしまった。今まで呉一郎を支配して来た現代的な理智や良心の代りに、一千年月の天才青年の超無軌道的な、強烈奔放な慾求が入れ代ったのだ。そうしてその記憶の中《うち》にタッタ一つ美しいモヨ子……一千年前の犠牲であった黛《たい》夫人に生写《いきうつ》しの姿がアリアリと浮出した」
「……………」
「……一千年後に現われた呉青秀の変態性慾の幽霊はかくして現代青年の判断力や、記憶や、習慣を使って無軌道的な活躍を初めた。姪の浜の石切場を出ると飛ぶように急いで家に帰って、モヨ子と何かしら打合わせた。多分、母屋《おもや》の雨戸の掛金を内側から外《はず》しておく事や、土蔵《くら》の鍵だの、蝋燭だのいうものを用意しておく事であったろうと思われるが……それから呉一郎は家中が寝鎮《ねしず》まるのを待って母屋へ忍び込んで、そっとモヨ子を呼び起した。……ところで無論モヨ子はこの時まで、こうした新郎の要求の真実《ほんとう》の意味を知らなかったようである。云う迄もなく呉一郎も、イザというドタン場までは故意《わざ》と真実の事を話さずに、高圧的な命令の形で、熱心に迫ったものらしいので、モヨ子も真逆《まさか》にそれ程の恐ろしい計劃とは知らずに、ただ当り前の意味に解釈して、非常に恥かしい事に思い思い躊躇していたらしい事が、戸倉仙五郎の話に出ている前後の状況で察せられる。……けれどもモヨ子は気質《きだて》が温柔《おとな》しいままに結局、唯々《いい》として新郎の命令に従う事になった。そいつを呉一郎の呉青秀は蝋燭の光りを便《たよ》りにして土蔵の二階に誘い上げた……という順序になるんだ。そこでその現場に関する調査記録を開いてみたまえ」
「……………」
「……それそれ。そこん処だ。階下より蝋燭の滴下起り……云々と書いて在るだろう。その百|匁《め》蝋燭の光りの前で、新郎と差向いになったモヨ子は、初めてその絵巻物を突き付けられながら……この絵巻物を完成するために死んでくれ……という意味の熱烈な要求を受けたに相違ない。しかもその絵を見ると、眼鼻立から年頃まで自分に生写しの裸体少女の腐敗像の、真に迫った名画と来ているのだからタマラない。腸《はらわた》のドン底まで震え上ると同時に卒倒して、そのまま仮死の状態に陥ってしまったものと考えられる……という事実を、その調査記録は『抵抗、苦悶の形跡なし』とか『意識喪失後に於て絞首』云々の文句で明かに想像させているではないか」
「……のみならずモヨ子がその後に於て、程度は余り深くないながらに自分と同姓の祖先に当る花清宮裡《かせいきゅうり》の双※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]姉妹《そうきょうしまい》の心理遺伝を、あの六号室で描《か》き現わしている事実に照してみると、その仮死に陥った瞬間というのは、彼《か》の土蔵の二階で、呉一郎がサナガラに描き現わした一千年前の呉青秀の心理遺伝の身ぶり素振りによって、モヨ子が先祖の黛《たい》、芬《ふん》姉妹《きょうだい》から受け伝えていたマゾヒスムス的変態心理の慾望と記憶とを、ソックリそのままに喚起《よびおこ》された刹那《せつな》であったろうという事も、併せて想像されて来るではないか」
「……………」
「……但《ただし》。こういうと不思議に思うか
前へ
次へ
全94ページ中76ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング