ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋骨《あばらぼね》や、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥骨《ちこつ》のみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。
 最終の第六図になると、唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
 ……私は嘘を記録する事は出来ない。あとから考えても恥かしい限りであるが、私はおしまいの方ほど急いで見た。
 勿論、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち付いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなくそんな気持ちはどこへやら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止める事が出来なくなった。それでも眼の前の正木博士に笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、出来るだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢出来なくなって、第六番目の絵なぞは殆ど眼の前を通過させただけと云ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来る堪《た》え難い悪臭に包まれて、殆ど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見える処まで来ると、思わずホッとして吾に返った。それから四五尺の長さにメッキリと書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、

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大倭朝《やまとちょう》天平宝字《てんぴょうほうじ》三|年《ねん》癸亥《きがい》五|月《がつ》於《おいて》[#二]西海《さいかい》火国《ひのくに》末羅潟《まつらがた》法麻殺几駅《はまさきえきに》[#一]
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[#地から3字上げ]大唐《だいとう》翰林学士《かんりんがくし》芳九連《ほうきゅうれん》二|女《じょ》芬《ふん》 識《しるす》

 という文字を二三度繰り返して読んで、いくらか気を落付けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経を鎮《しず》めるべく椅子に背を凭《も》たせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、呉青秀の心理がわかるかね」
「……………」
「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけで沢山なんだ。大抵の奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに呉青秀が、なおも新しい女の屍体を求めたというのは、彼が病的の心理に堕落していた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像に咀《のろ》われて精神に異状を来たしたんだ。その心理がわかるかね君には……」
 こうした言葉を鼓膜にピンピンと受け付けながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、瞼《まぶた》の内側の薄赤い暗《やみ》の中に、たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光りを帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々に辷《すべ》り初めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目にあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。
 私は思わず身ぶるいをした。パッと眼を開くと、いつの間にか椅子を廻転さして、こっちを正面に腕を組んでいる正木博士と視線がカチ合った……途端に博士は黒ずんだ唇の間から義歯《いれば》を光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇に在る赤い薄っペラな耳朶《みみたぶ》をズッと上の方へ動かしたので、私は又、思わずゾッとして眼を伏せた。
「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとする筈だ。……あの呉一郎も初めてこれを見た時には、君と同じように慄《ふる》え上がったに違いないのだ。……恰《あたか》も太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉一郎の心理の底に隠れ伝わっていた祖先の一念は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうしてみるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。過去も、現在も、未来も、日月星辰《じつげつせいしん》の光りもことごとくその大光明に掻き消されてしまって、自分自身が呉青秀と同じ心理……すなわち呉青秀自身になり切ってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を捲き納めながら、ホッと溜め息をして西の空を凝視していた呉一郎は、最早《もはや》、今までの呉一郎ではなかったのだ。呉青秀の熱烈な慾求そのものを全身の細胞に喚び起した、或る青年の記憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉一郎が発狂以後今日まで、呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている呉青秀の心理の推移と、呉一郎の今日までに於ける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推移を精神病理的に観察してみると、呉一郎は、一千年後の呉青秀に相違ないのだ」
 私は又、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。
「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉一郎と呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の階梯《かいてい》から明かにして行かねばならぬ。平たく云えば、如何に秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉一郎が、純粋の漢文の白文で、四五尺近くも細かに書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……という事から疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかるかね。その理由が」
 私は正木博士の底光りする眼を凝視《みつ》めたまま、乾燥した咽喉《のど》に唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
「……わかるまいナ……わからない筈だ。呉一郎が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」
「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」
 と云いも終らぬうちに私は愕然として慄《ふる》え上がった。
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……誰か……何者かが傍に附いていたんだ……今しがた私が聞いたような説明をして聞かせた奴が居たんだ……居たんだ……そいつが……そいつが……そいつは……そいつは……
[#ここで字下げ終わり]
 こう思ううちに一しきり高まっていた心臓の鼓動が又ピッタリと静まった。そうして、それと同時に正木博士の厳粛な眼の光りが次第次第に柔らいで行くのを見た。一文字に結ばれた唇が見る見る弛《ゆる》んで、私を憫《あわ》れむような微笑《ほほえみ》にかわって行くのを見た……と思うと、無雑作に投げ出すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。
「……『狐憑《きつねつ》き、落つればもとの無筆《むひつ》なり』……という川柳を知っているかね君は……」
 私は面喰った。不意に横頬に何か見えないものをタタキ付けられたような気持ちがして、暫く眼をパチパチさせていた。
「……そ……そんな川柳は知りません」
「……フ――ン……この句を知らなけあ川柳を知っているたあ云えないぜ。柳樽《やなぎだる》の中でもパリパリの名吟なんだ」
 こう云うと正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片膝をぐっと椅子の上に抱え上げた。
「……ソ……それが……どうしたんです」
「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」
 冷やかにこう云い放った正木博士の口から、小さな煙の輪が一ツクルクルと湧き出して、私の頭の上の方へ消えて行った。私は又、眼をパチパチさした。
 ……狐憑き……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆……
 と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えても解らなかった。
「若林先生は知っているんですか……その理屈を……」
「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」
「……ヘエ……どういう訳なんで……」
「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」
 正木博士はユッタリと椅子の背に身を凭《も》たせて足を長々と踏み伸ばした。
「……この川柳は狐憑きが、心理遺伝の発作である事を遺憾なく説明しているのだ……すなわち狐憑きはその発作の最中に妙な獣《けもの》じみた身振りをしたり飯櫃《めしびつ》に面《つら》を突込んだり、床下に這い込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮するから、狐憑きという名前を頂戴しているんだが、同時にこの狐憑きはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が狐憑きになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラでもあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」
「ヘエ――。そんなに細かいところまで先祖の記憶が……」
「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐に憑《つ》かれると歌を詠《よ》んだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を治したりする。一寸《ちょっと》不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前の事なんだ……殊にこの絵巻物は、絵の方が先になっているんだから、それを見ているうちに呉一郎はスッカリ昂奮して、あらかた呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何度も発狂する程深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。范陽《はんよう》の進士呉青秀の学力が、自分の経歴を暗記した奴を、又読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」
「……驚いた……成る程……」
「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉一郎を昏迷させたものは、その六個の死美人像の中《うち》に盛り込まれている思想である」
「思想というと……やはり呉青秀の……」
「そうだ。この心理遺伝のそもそもというものは、呉青秀の忠君愛国から初まって、その自殺に終る事になっているが、それはその由来記の表面だけの事実で、その事実の裡面に今一歩深く首を突込んでみると豈計《あにはか》らんや。呉青秀の忠勇義烈がいつの間にか変化して、純然たる変態性慾ばかりになって行く過程が遺憾なく窺われるのだ。ちょうど材木が乾溜《かんりゅう》されて、アルコールに変って行くようにね」
「……………」
「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が昨夜《ゆんべ》焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに、附録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけを掻《か》い抓《つま》んで話すと、こうだ。……呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機というのは今も云った通り、天下万生のためという神聖無比な、純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、その神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なものの色々が異分子として含まれているのを、御本人の呉青秀も気付かずにいた。……と考えなければ、その絵巻物の存在の意義に就いて、いろんな不合理があるのを、どうしても説明出来なくなって来るのだ」
「この絵巻物の存在の意義……」
「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義に於て、存在の意義が怪しくなって来るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像を描《か》き並べただけで、天子を諫《いさ》めるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美が如何に果敢《はか》ないものか……無常迅速なものかという事を悟らせるにはこの六個の腐敗美人像だけで沢山なのだ。……論より証拠だ。現在、たった今、君が一《ひと》わたり眼を通しただけでもゾ
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