の隠れ家を誰も知らなかったので、生命《いのち》だけは辛《かろ》うじて助かっていた。然れ共呉青秀の忠志は遂《つい》に退かず、至難に触れて益々|凝《こ》る。遂《つい》に淫仙《いんせん》の名を得たりとある。淫仙というのはつまり西洋の青髯《ブルーベヤード》という意味らしいね」
「ヘエ……しかし淫仙は可哀相ですね」
「ところがこの淫仙先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓を発《あば》き、屍体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。ところが俗にも死人|担《かつ》ぎは三人力という位で、強直の取れたグタグタの屍体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げ難《にく》いものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、出来るだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうというのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落し、こっちへ担ぎ直して、喘《あえ》ぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に触れた。かねてから淫仙先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい事か、テッキリ屍姦だ。極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たから淫仙先生も止むを得ず屍体を抛棄《ほうき》して、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二三日は、その背中に担いだ屍体の冷たさが忘れられなくていくら火を焚《た》いても歯の根が合わなかったという」
「よく病気にならなかったものですね」
「ウン。風邪ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。況《いわ》んや呉青秀の忠志は氷雪よりも励《はげ》しとある。四五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した呉青秀は、又も第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全然方角を違えた村里に下り、一|挺《ちょう》の鍬《くわ》を盗み、唯《と》ある森蔭の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光りに照らされた一基の土饅頭の前に、花を手向《たむ》けているのが見える。この夜更けに不思議な事と思って、窃《ひそ》かに近づいてみると、件《くだん》の女性は、遠い処の妓楼《ぎろう》から脱け出して来た妓女《おんな》らしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは何故《なにゆえ》に妾《わたし》を振り棄てて死んだのですか』と掻《か》き口説《くど》く様子を見ると、いか様《さま》、相思の男の死を怨《うら》む風情である。忠義に凝った呉青秀は、この切々の情を見聞して流石《さすが》に惻※[#「隱」の「こざとへん」に代えて「りっしんべん」、487−14]《そくいん》の情に動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の背後《うしろ》に忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。すると忽《たちま》ち背後《うしろ》の森の中に人音が聞えて、女の追手と覚《おぼ》しき荒くれ男の数名が口々に『素破《すわ》こそ淫仙よ』『殺人魔よ』『奪屍鬼《だっしき》よ』と罵《のの》しりつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。呉青秀は、これを見て怒《いかり》心頭に発し、屍体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二三人、墓原《はかばら》にタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。その隙《ひま》に、又も妓女《おんな》の屍体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た屍体を浄《きよ》めて黛夫人の残骸の代りに床上に安置し、香華《こうげ》を供え、屍鬼を祓《はら》いつつ、悠々と火を焚いて腐爛するのを待つ事になった。ところがそのうちに又、二三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から火烟《ひけむり》が迫って来て、鯨波《ときのこえ》がドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲は薪が山の如く、その外を百姓や役人たちが雲霞《うんか》の如く取り巻いて気勢を揚げている様子だ。つまり何者かが、コッソリ呉青秀の跡を跟《つ》けて来て、画房を発見した結果、こんなに人数を馳《か》り催して、火攻めにして追い出しにかかった訳だね。その時に呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、黛夫人の髪毛《かみのけ》の中から出て来た貴妃の賜物《たまもの》の夜光珠《やこうじゅ》……ダイヤだね……それから青琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《せいろうかん》の玉、水晶の管《くだ》なぞの数点を身に付けて、生命《いのち》からがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦する事数箇月、やっと一ヶ年振りの十一月の何日かに都に着くと蹌踉《そうろう》として吾家《わがや》の門を潜った。既に死生を超越した夢心地で、恍惚求むるところなし。何のために帰って来たのか、自分でも解らなかったという」
「……ハア。ホントに可哀相ですね。そこいらは……」
「ウム。ちょうど生きた人魂《ひとだま》だね。扨《さ》て門を這入ってみると北風《ほくふう》枯梢《こしょう》を悲断《ひだん》して寒庭《かんてい》に抛《なげう》ち、柱傾き瓦落ちて流※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]《りゅうけい》を傷《いた》むという、散々な有様だ。呉青秀はその中を踏みわけて、自分の室《へや》に来て見るには見たものの、サテどうしていいかわからない。妻の姿はおろか烏《からす》の影さえ動かず。錦繍《きんしゅう》帳裡《ちょうり》に枯葉《こよう》を撒《さん》ず。珊瑚《さんご》枕頭《ちんとう》呼べども応えずだ。涙|滂沱《ぼうだ》として万感初めて到った呉青秀は、長恨悲泣《ちょうこんひきゅう》遂《つい》に及ばず。几帳《きちょう》の紐を取って欄間《らんま》にかけ、妻の遺物を懐《ふところ》にしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅く彼《か》の時早く、思いもかけぬ次の室《へや》から、真赤な服を着けた綽約《しゃくやく》たる別嬪《べっぴん》さんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」
「ヘエ――。それは誰なんですか一体……」
「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にして除《の》けた筈の黛夫人で、しかも新婚匆々時代の濃艶を極めた装おいだ」
「……オヤオヤ……黛夫人を殺したんじゃなかったんですか」
「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで呉青秀はスッカリ面喰《めんくら》ったね。ウ――ンと云うなり眼を眩《ま》わして終《しま》ったが、その黛夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち付けてよく見ると、又驚いた。タッタ今まで新婚匆々時代の紅い服を着ていた黛子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白い裳《もすそ》を長々と引きはえている。鬢鬟《びんかん》雲の如く、清楚《せいそ》新花《しんか》に似たり。年の頃もやっと十六か七位の、無垢《むく》の少女としか見えないのだ」
「……不思議ですね。そんな事が在り得るものでしょうか」
「ウン。呉青秀も君と同感だったらしいんだ。危くまた引っくり返るところであったが、そのうちに、ようようの思いで気を取り直して、どうしてここに……と抱き上げながら、その少女を頭のテッペンから、爪の先までヨクヨク見上げ見下してみると、何の事だ……それは黛夫人の妹で、双生児《ふたご》の片われの芬子《ふんこ》嬢であった」
「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。芝居のようで……」
「どこまでも支那式だよ。そこでヤット仔細《わけ》がわかりかけた呉青秀は、芬子さんを取り落したまま、開《あ》いた口が閉《ふさ》がらずにいると、その膝に両手を支えた芬子さん、真赤になっての物語に曰《いわ》く……ほんとに済まない事を致しました。嘸《さぞ》かしビックリなすった事で御座んしょう。何をお隠し申しましょう。妾《あたし》はズット前からタッタ一人でこの家《うち》に住んでいて、姉さんが置いて行った着物を身に着けて、スッカリ姉さんに化け込みながら、毎日毎日お義兄《にい》さまに仕える真似事をしていたんです。……妾の主人の呉青秀はこの頃毎日|室《へや》に閉じ籠って、大作を描いておりますと云い触らして、食料も毎日二人前|宛《ずつ》、見計《みはか》らって買い入れるし、時折りは顔料《えのぐ》や筆なぞを仕入れに行ったりして誤魔化《ごまか》していましたので、近所の人々は皆《みんな》……この天下大乱のサナカに、そんなに落ち付いて絵を描《か》くとは、何という豪《えら》い人だろうと……眼を丸くして感心していた位です。……妾はそんなにまでして苦心しいしい、お二人のお留守番をして、お帰りになるのを今か今かと待ちながら、この一年を過したのですが、今日も今日とてツイ今しがた、買物に行って帰って来ますと、この室《へや》に物音がします。その上に誰か大きな声でオイオイ泣いているようなので、怪しんで覗いて見たら、お義兄《にい》さまが死のうとしていらっしゃるのでビックリして、そのままの姿で抱き止めたのです。それから気絶なすった貴方を介抱しておりますと、弛《ゆる》んだ貴方の懐中《ふところ》から、固く封じた巻物らしい包みと、姉さんが大切にしていた宝石や髪飾りが転がり出して来ました。それと一緒に貴方が夢うつつのまま、どこかを拝む真似をしながら……黛よ。許してくれ。お前一人は殺さない……と泣きながら譫言《うわごと》を仰言《おっしゃ》ったので、サテは姉さんはモウお義兄《にい》さまの手にかかって、お亡くなりになったのだ……そうしてお義兄《にい》様は妾を姉さんの幽霊と間違えていらっしゃるのだ……という事がヤット解りましたから、お義兄《にい》さまの惑いを晴らすために、急いで自分の一帳羅《いっちょうら》服に着かえてしまったのです。……ですが一体お義兄《にい》さまは、どうして黛子姉さんをお殺しになったのですか。そうして今日が日まで一年もの長い間、どこで何をしていらっしたんですか……と涙ながらに詰め寄った」
「ハア……しかし何ですね。……その前にその芬子という妹は、何だってソンナ奇怪《おかし》な真似をしたんでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕える真似事をしたりなんか」
「ウンウン……その疑問も尤《もっと》もだ。呉青秀もやっぱり同感だったろうと思われるね。それともまだ開《あ》いた口が塞《ふさ》がらずにいたのかも知れないが、何の答えもあらばこそだ。依然として芬子嬢の顔を見下したまま唖然《あぜん》放神の体《てい》でいると、やがて涙を拭いた芬子嬢は、幾度もうなずきながら又|曰《いわ》く……御もっともで御座います。これだけ申上げたばかりではまだ御不審が晴れますまいから、順序を立ててお話しましょうが……お話はずっと前にさかのぼって丁度去年の暮の事です。……姉さんが宮中を去ってからというものは、外《ほか》に身寄り便《たよ》りのない妾の淋しさ心細さが、日に増し募《つの》って行くばかりでした。そのうちに又、ちょうど去年の今月の、しかも今日の事……大切な大切なお義兄《にい》さま達御夫婦が、外《ほか》ならぬ妾にまでも音沙汰《おとさた》なしで、不意に行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましておしまいになったと聞いた時の妾の驚きと悲しみはどんなでしたろう。一晩中寝ずに考えては泣き、泣いては考え明かしましたが、思いに余ったその翌る日の事、楊貴妃様から暫時《しばし》のお暇を頂いた妾は、お二人の行衛を探し出すつもりで、とりあえずこの家に来て見ました。そうして妾を見送って来た二人の宦官《かんがん》と、家《うち》の番をしていた掃除人を還《かえ》してから、唯一人で家内の様子を隈なく調べてみますと、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式の時に使った大切な飾り櫛を、真二つに折って白紙に包んだまま、化粧台の奥に仕舞ってあります。けれども義兄《にい》さんの方は、そんな模様がないばかりか、絵を
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