少女と、双生児《ふたご》の片ッ方か何かとを、見ず知らずの赤の他人同志のまま、わざわざ精神病患者にして、或る念の入った錯覚に陥れて、二人が本気でクッ付き合うように仕向けている……と考えられぬ事もないが、併《しか》し、いくら何でもソンナ残忍不倫を極めた、奇怪千万な学理実験が、人間の心と、人間の手で行われ得るとは考えられない。
……そもそもこうした矛盾と不可解は、どこの行き違いから来たものであろう。
……二人の博士はドウシテこんなに私を中心にして騒ぎまわるのであろう……。
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……と……。
けれども、それは詰るところ無用の努力であった。そんな風に考えれば考えるほど一切がこんがらがって来て、推測すればする程不可解に縺《もつ》れ乱れて来るばかりであった。しまいには考える事も推測する事も出来なくなって、唯、眉をしかめて、唇を噛んでいる石像のような自分の姿を頭の中で想像しつつ、凝然と眼を閉じているばかりとなった……。
……コツコツ……コツコツ……扉をたたく音……。
私はギクンとして眼を見開いた、魘《おび》えたようになって入口の扉を見た。もしや若林博士ではないかと思って……けれども正木博士は見向きもしないで頬杖を突いたまま、ビックリする程大きな声を出した。
「オーイ……這入れエーッ……」
その声が室中《へやじゅう》に響き渡ると間もなく鍵穴をガチャガチャいわせて、扉を半分ばかり開きながら這入って来た者を見ると、それは九州帝国大学の紺のお仕着せを着たテカテカ頭の小使いであった。もう余程の老人らしく、腰を真二つに折り屈《かが》めていたが、右手に支えた塗盆《ぬりぼん》の上に煤《すす》けた土瓶と粗末な茶碗|二個《ふたつ》とを載せて、左手にはカステラを山盛りにした菓子器を捧げながら、ヨチヨチと大|卓子《テーブル》に近づいて、不思議そうな顔をして見ている正木博士の前に置いた。そうして何かに魘《おび》えているかのようにオドオドと禿頭《はげあたま》を下げたが、揉《も》み手をしいしい首を擡《もた》げて、正木博士と私の顔を霞んだ眼で等分にキョロキョロと見比べると、又一つ、床に手が届くくらい馬鹿叮嚀なお辞儀をした。
「ヘイヘイ、今日はまことによいお天気様で……ヘイヘイ……これはあの、学部長様からのお使いで、お二方《ふたかた》様のお茶受けに差し上げてくれいとの、お申し付けで御座いましたが……ヘヘイ……」
「アハハハハハハ。そうかい。若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。若林が自分で持って来たんかい」
「イエ……あの、学部長様が先刻《さきほど》からお電話で御座いまして、正木先生がまだおいでになるかとお尋ねで御座いましたから、私はビックリ致しまして、如何か存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、お室《へや》の外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様に左様《さよう》申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」
「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で云っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」
「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは私一人で御座いますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まことに不行届きで……申訳御座いませんで……ヘイヘイ……」
小使の爺《じじい》は二人の前に、危《あぶな》っかしい手附きで茶を注《つ》いで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。
そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた正木博士はイキナリ前屈《まえこご》みになってカステーラの一片を手掴みにすると、たった一口に頬張り込んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうして私にも喰えという風に眼くばせをした。
しかし私は動かなかった。両手を膝の上に束ねて眼を瞠《みは》ったまま、正木博士のする事を見ていた。何かは知らず私には解らない別の意味で、互いに火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心を惹《ひ》かれながら……。
「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがる事はないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。彼奴《きゃつ》め吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていない事を知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラを遣《よこ》して上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシロモノだから何も心配する事はない。猫イラズも何も這入ってやしないよ。ハハハハハハハ」
と云ううちに又二|片《きれ》三|片《きれ》口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。
「ああ美味《うま》い。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉一郎の前後二回の発作については、もう何も疑問の点は残っていないかい」
「あります」
と私は鸚鵡《おうむ》返しに返事をした。ところがその返事は、私の思いもかけないハッキリした声で飛び出して室中に大きな反響を起したので、私は吾《わ》れながらハッとした。思わず座り直して下腹へ力を入れた。
それはたった今眼の前で起った小さな波瀾……カステーラ事件のために、今まで行き詰まっていた私の気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。それともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの時に、私の返事が室《へや》の中で「ウワ――ン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲み込んだ……が、その又お茶の美味《おい》しかった事……舌から食道へと煮え伝わって行く芳《かん》ばしい薫《かお》りを、クリ返しクリ返し味わって行くうちに、全身の関節がフンワリと弛《ゆる》んで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くなって、吾れにもあらず濡れた唇を嘗《な》めまわしながら、正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフ――ッと吹きながら……。
「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎と思う事は絶対に出来ない……」
と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。すると又、不思議にも、それにつれて今の今まで私の身の上に起って来た色々の出来事が、まるで赤の他人の事のように考えられて何ともいえず面白くなって来たのであった。今朝から見たり聞いたりした色々様々な事が、さながら百色眼鏡でも覗いているかのように、云い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し初めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた二人の博士が、チットモ怖くなくなった許《ばか》りでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。
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……二人の博士はキット何かしら飛んでもない大きな感違いをしているのだ。
……事によるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆《あほ》らしい喜劇かも知れないぞ。
「……私と瓜二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病に罹《かか》っている。そのためにその二人が混線してしまって、ドッチがドッチだか解らなくなったのを、二人の博士が競争で見分けようとしてウンウン云っているが、どうしても解らない。とうとう苦し紛《まぎ》れに、そのドッチかの許嫁《いいなずけ》であった少女をそのドッチかにくっつけ[#「くっつけ」に傍点]て結論にして、その手柄を自分のもの[#「もの」に傍点]にすべく、あらゆるペテンを尽して鎬《しのぎ》を削っている……というような、途方もなく愉快奇抜な筋書とも見れば見られるではないか。……面白いな……いよいよソンナ事に違いないと決定《きま》れば二人の博士が私の敵《かたき》だろうが味方だろうが、その二人が私にかけているダマシの手段が、如何に巧妙な恐ろしいものであろうが、チットモ恟々《びくびく》する事はない。是非とも私自身にこの事件の正体がわかるところまで突込んで行かなければ嘘だ。そうして事件の真相をトコトンまで抉《えぐ》り付けて、あの少女をこのキチガイ地獄から救い出して、二人の博士の鼻を明したら、どんなにか痛快至極だろう……」
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……というような、無暗《むやみ》に大胆な、浮き浮きした気分にかわってしまったのであった。……室《へや》の中の爽快な明るさ……窓一パイの松の青さ……その中に満ち満ちている白昼の静けさなぞが、今更に気持ちよく、身に沁《し》みて来たのであった。
しかし、こんな風に私の頭の中が変化してしまったのはほんの数秒の間の事であったように思う。間もなく吾に帰ってみると、正木博士は、そうした私の顔を鼻眼鏡|越《ごし》にニヤリと眺めながら頭のうしろに両手をまわして反《そ》りかえっていた。私の質問を待っているかのように……。
私はちょっと間誤付《まごつ》いた。どっちにしても質問したい事があんまり多過ぎるので……しかし、どこからでも構わない気で、眼の前の遺言書を取り上げてバラバラと繰って行くうちに、やがて事件記録抜萃の一番おしまいの処まで来ると、そこを指して正木博士に見せた。
「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿入のこと……と書いてあります。その本物は、どうなっているのですか」
「アッ。そいつは……」
と云い終らぬうちに正木博士は両手を卸して、大|卓子《テーブル》の端をドシンと叩いた。
「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようというので夢中になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見せるのを忘れていた。そいつを見なくっちゃ呉一郎の心理遺伝の正体はわからない。吾輩の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……イヤ失敗失敗。睡眠不足で頭が少々御座ったかナ……イヤ。早速お眼にかけよう。コレ……ここにあるがね」
正木博士はこう云って頭を掻きつつ、片手を伸ばして横に在るメリンスの風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚さ二寸位の西洋大判罫紙《フールスカップ》の綴込《つづりこ》みを抱え出すと、わざわざ北側の窓の処まで持って行って風呂敷をハタイた。
「……プッ……プップッ……どうもヒドイホコリ[#「ホコリ」に傍点]だ。長い事ストーブの穴に放り込みっ放しだったもんだからね。……ところで見給え。この綴込みが姪の浜事件に関する若林の調査書で、君が読んだその抜萃の原本だ。あの肺病患者特有の冴え返った神経で、二重にも三重にも、透きとおるほど綿密に調べ抜いてあるんだからトテモ遣り切れたものじゃない。だから読むにしてもいずれ後《あと》からユックリの事にしてもらって、今日は取り敢えずこの絵巻物と、その由来記を見てもらう事にしよう……ところでまず由来記の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た方が面白いだろうからナ……」
こうした言葉の中《うち》に新聞の包みが開かれると、その中の白木の箱の上に置いてある日本紙一帖位の綴込みが、無雑作に私の前に投げ出された。
「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまりこの如月寺《にょげつじ》の縁起|譚《ものがたり》の前に起った出来事で、今から凡《およ》そ一千百年前の大昔から初まった呉一郎の心理遺伝のソモソモが書いてあるんだが、君がそれを読んでいるうちに……ハテナ……これはズット以前にコンナ処でこうして読んだ事があるぞ……という事実をハッキリと思い出すか出さないかが、矢張《やは》り若林と吾輩の生死の別れ目になるんだ。ね。そうだろう。それを読んだ記憶が一分一厘でも君のアタマに残っておれば、君は呉一郎に相違ないのだからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮する事はない。素敵に面白い話だから……」
私はそれが如何に貴重な内容の書類であるかを百も承知していながら……しかもその書類によって正木博士が、私に試みつつある精神科学の
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