ってこと……虻《あぶ》の心は蜂《はち》知らず。豚の心は犬知らず。張三が頭を打たれても李四は痛くも何ともないというのが普通の道理だ。すなわち唯物科学式の考え方なんだが」
正木博士は突然に、こんな謎のような言葉を、葉巻の煙と一緒にパクパク吐き出した。そうして私がその意味を飲み込めずに面喰《めんくら》っているうちに、片眼をつぶって顰《しか》めながらニヤニヤと笑い出した。
「然るにだ……現在、君自身には赤の他人としか思えない呉一郎の頭の痛みが、如何なる精神科学の作用で、君自身の顱頂骨《ろちょうこつ》の上に残っているか……」
私は今一度窓の外を振り向いて、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら突立っている呉一郎の姿を凝視しない訳には行かなかった。しかも、それと同時に私の頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、新《あらた》に活《い》き活《い》きと疼《うず》き出したように思えてならなかった。
その眼の前に正木博士は、又も一ぷく巨大な烟《けむり》の一団を吹き出した。
「……どうだい。この疑問が君自身で解決出来そうかい」
「出来ません」
と私はキッパリ返事をした。頭を押えたまま……今朝《けさ》眼が醒めた時と同じような情ない気もちになって……。
「出来なければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいる迄の事さ」
私は急に胸が一パイになって来た。それは親に手を引かれて知らない処を歩いていた小児が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさであった。思わず頭から手を放して両手を握り合わせた。拝むように云った。
「教えて下さい……先生。どうぞ、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議な事に出会《でっくわ》したら死んでしまいます」
「意気地《いくじ》のない事を云うな。ハハハハハ。そんなに眼の色を変えないでも教えてやるよ」
「どうぞ……誰ですか……僕は……」
「まあ待て……それを解らせる前に一ツ約束しておかなくちゃならん事がある」
「……ど……どんな約束でも守ります」
正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っこめて、私の顔をピッタリと見据えた。
「……キット守るか……」
「キット守ります……どんな約束です……」
正木博士の顔には又、博士独特の皮肉な冷笑が浮んだ。
「ナニ。君が今の通りのたしかな気持ちで『俺はどんなに間違っても呉一郎じゃないぞ』という確信を以て聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思うが……つまり吾輩はこれから呉一郎の心理遺伝事件について、ドンドコドンのドン詰まで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんなに怖ろしい……又は……あり得べからざる事であろうとも我慢してお終《しま》いまで聞くか」
「聞きます」
「ウン……そうしてその吾輩の話が済んでから、その話の全部が一点の虚偽を交《まじ》えない事実である事を君が認め得ると同時に、その事実を記録して、あの吾輩の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務である……人類に対する君の大責任である……という事がわかったならば、仮令《たとい》、それが如何に君自身にとって迷惑な、且つ、戦慄に価する仕事であろうとも必ずその通りに実行するか」
「誓って致します」
「ウム……それから今一つ……もしそうなった暁には、君は当然、あの六号室の少女と結婚して、あの少女の現在の精神異状の原因を取り除いてやる責任があることも同時に判明するだろうと思うが、そうした責任も君はその通りに果せるか」
「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」
「それはその場になって、君自身が考えてみればいい……とにかく、そんな責任があるかないか……言葉を換えて云えば、呉一郎の頭の痛みが、どうして君のオデコの上に引っ越したかという理由を明らかにする方法は、頗《すこぶ》る簡単明瞭なんだからね。物の五分間とかからないだろう」
「……そんな……そんな容易《やさ》しい方法なんですか」
「ああ、雑作ない事なんだ。しかも理窟は小学生にでもわかる位で、吾輩の説明なぞ一言も加えないでいい。唯、君が或る処へ行って、或る人間とピッタリ握手するだけでいいのだ。そうするとそこに吾輩が予期している、或る素晴しい精神科学の作用が電光の如く閃《きら》めき起って……オヤッ……そうだったかッ……俺はこんな人間だったのかッ……と思うと同時に、今度こそホントウに気絶するかも知れぬ。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起るかも知れないがね」
「……それを今やってはいけないんですか……」
「いけない。断じていけない。今君が誰だという事がわかると、今云った通り飛んでもない錯覚に陥って、吾輩の実験をメチャメチャに打ち壊す虞《おそ》れがあるんだ。だから君がスッカリ前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で見届けた上でなくちゃ、その実験をやる訳に行かないと云うのだ。……どうだ。出来るかい……その約束が……」
「……出来……ます……」
「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話が篦棒《べらぼう》に固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」
と云ううちに正木博士は、私の手をグングンと引っぱって、大|卓子《テーブル》の処へ連れて来て座らせた。自分も旧《もと》の肘掛回転椅子に私と差し向いに座ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは達磨《だるま》の灰落しの口へタタキ込んだ。
私は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、益々深刻に交錯して来るのを、頭の中心にハッキリと感じながら…………。
「イヤ。馬鹿に話が固苦しくなった」
と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両肱をついた。その上に顎を載せて、長い葉巻を横啣《よこくわ》えにしながら、ニヤニヤと私の顔をのぞき込んだ。
「ところでどうだい。君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は今朝《けさ》見たあの少女をどう思うね」
私は質問の意味が解りかねて眼をパチパチさせた。
「どう思う……とは……」
「美しいとは思わなかったかね」
不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた私は狼狽《ろうばい》せずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「|?《インタロゲーションマーク》」が一時に消えうせて、その代りに黒く潤《うる》んだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月眉……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞが交《かわ》るがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、私の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体《からだ》中をめぐり初めたように思って、われ知らずハンカチで顔を拭いた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。
正木博士はニヤニヤしたまま顎でうなずいた。
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかと訊《き》かれて平気で返事の出来る青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、又は八犬伝や水滸伝《すいこでん》に出て来る性的不能患者の後裔《こうえい》だからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」
私は本当を云うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。……が併《しか》し、事実を偽ることは出来ない。私は正木博士からこう尋ねられたお蔭で、あの少女に対する私の気持ちが、今朝《けさ》初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味のわるいほどの初々《ういうい》しさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。そうしてそれが果して彼女に対する私の「恋の表現」の「変形」であったかどうか……なぞいう事を考えてみる暇《いとま》がなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する冒涜とさえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を正木博士に指されたような気がしたので、私は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。石のように固くなって、切口上で返事をしたのであった。
「え……可哀想とは……思いました」
正木博士はこう聞くとサモ満足気に幾度《いくたび》も幾度もうなずいた。その態度を見ると正木博士はこの時に私があの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も私は持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにとヤキモキ考えているうちに正木博士は、なおも悠々と念入りに点頭《うなず》き直してしまった。
「そうだろうともそうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋した事だからね。そうでないという奴は似非《えせ》道徳屋……」
「……ソ……そんな乱暴な……セ……先生……誤解です……」
と私は周章《あわ》てて半布《ハンケチ》を持った手をあげつつ叫んだ。
「……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情慾とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜です……精神科学者にも似合わない乱暴な云い草です……無茶苦茶です。それは……」
というような反駁の言葉を一時に頭の中で閃《ひら》めかしながら……。しかし正木博士はビクともしないでニヤニヤを続けた。
「わかってるわかってる。弁解しなくともいい。君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せ給え。君があの少女を恋しているいないに拘わらず運命に任せ給え。そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みと、あの少女とがドンナ関係に於て結ばれているかという話を聞き給え……少々取り合せが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、或る運命の一直線上に向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬ事が、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来るからね」
こうした正木博士の言葉を聞いているうちに、私は又も、ガックリとうなだれさせられてしまった……しかし、それは赤面してうつむいたのではなかった。その時の私の気持ちは赤面どころではなかった。正木博士の言葉の中に含まれている、あらゆる不可思議な事実の中から、私の現在の立場を解決すべき焦点を、どうして発見しようかと、又も一所懸命に眼を閉じ、唇を噛み締めたのであった。今朝《けさ》からの出来事を順々に、思い浮めては考え合せ、考え合せては分解してみたのであった。
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……正木、若林の両博士は、表面上無二の親友のように見せかけているが、内実は互いに深刻な敵意を抱き合っている仇讐《かたき》同志である。
……その仲違《なかたが》いの原因は、私と呉一郎を実験材料とした精神科学に関する研究から端を発しているらしく、今はその闘いが、白昼公々然とこの教室で行われる位にまで高潮して来ている。
……しかし、私とあの六号室の少女とを無理にも結婚させようとする意志だけは二人とも奇妙に一致しているようである。
……しかも、万に一つ私が、あの呉一郎と同一人か、もしくは呉一郎と同名、同年の、同じ姿の青年であって、あの少女が又、呉モヨ子に相違ないとすれば、実に変テコな事になるのだ。すなわち私達二人をその結婚の前夜に、或る精神科学的の犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命に陥れたものは、この二人の博士以外に在り得ないように思われるではないか。……コンナ矛盾した事が又とほかに在り得ようか。
……尤《もっと》も強いて解釈をつけようとすれば付かぬ事もない。二人の博士は何等かの学理研究の目的で一人の
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