ら物の本に載っている、有名な離魂病というのに罹《かか》っているのだからね……」
「……エ……離魂病……」
「……そうだよ。離魂病というのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違った事をするので、昔から色んな書物に怪談として記録されているが、精神科学専門の吾輩に云わせると、学理上実際にあり得る事なんだ。しかし、そいつを現実に、眼の前に見ると、何ともいえない不思議な気持ちがするだろう」
 私は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて……。
「……あれが僕……呉一郎と……僕と……どっちが呉一郎……」
「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢から醒め得ないのだね」
「エッ夢……僕が夢……」
 私は眼を真ン丸にして振り返った。得意そうに反《そ》り身になっている正木博士を見上げ見下した。
「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には先刻《さっき》から人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけた桐の木が五六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」
「……………」
「……こうなんだ……いいかい。これは、すこし専門的な説明だがね。君の意識の中で、現在眼を醒まして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分なんだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、嗅ぐ、味《あじわ》う、感ずる。そいつを考える。記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼を醒していないのだ。……そこで君がこの窓から、あの場内の光景を覗くと、その一|刹那《せつな》に、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまで甦《よみがえ》って、今見ている通りのハッキリした幻影となって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、硝子《ガラス》窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見ているのだよ君は……今……」
 私はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく瞬きをしいしい正木博士の妙な笑い顔を睨んだ。
「……そんなら……僕は……やはり呉一郎……」
「……そうだよ。理論上から云っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎と名乗る青年でなくては、ならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復して終《しま》ったとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないと解らないがね。フフフフ」
「……………」
「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもない事なんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経衰弱にかかっている時なぞには、よくこんな事があるんだよ。尤も程度は浅いがね……白昼《まひる》の往来を歩きながら、昨夜《ゆうべ》自分が女にチヤホヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りを辿《たど》ってゆくうちにこの間、電車に轢《ひ》かれ損《そこ》なった刹那の光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女は又女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、女学生時代の自分の思い出の後影《うしろかげ》を逐《お》うて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだ色々とあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏睡が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらない程の……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っているので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」
「……………」
「……おまけに今も云う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能の或る一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ少しずつ甦《よみがえ》らせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなか醒めないかも知れない。……醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの室《へや》も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテは最早《もう》覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「……………」
 いつの間にか又眼を閉じていた私は、唯、正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから昏迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼を開《あ》いたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
 その時であった。殆ど無意識に頭を押えていた私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨に滲《し》み渡るほどの痛みを感じたのは……。
 私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少し膨《ふくら》んでいるようであるが、しかし腫《は》れ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした痕跡《あと》である……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、今朝《けさ》から今までの間に、そんなに非道《ひど》く頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
 夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。私はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きな鳶《とび》の投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
 それを見た時に私は、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的現象の重なり合《あい》であるにせよ、私自身にとっては決して、夢でもなければうつつ[#「うつつ」に傍点]でもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく肖通《にかよ》っている窓の外の青年、呉一郎の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然と睨み付ける事が出来た。それから徐《おもむ》ろに正木博士をふり返ると、博士は忽《たちま》ち眼を細くして、義歯《いれば》を奥の方までアングリと露《あら》わした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉一郎とは思えないかい」
 私は無言のまま、キッパリと首肯《うなず》いた。
「ハッハッハッ。イヤ豪《えら》い豪い。実は今云ったのは……みんな嘘だよ……」
「エッ……嘘……」
 と云いさして私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って、大きな眼を剥《む》き出していたように思う、恐らく「呆《あっ》」という文字をそのままの恰好で……。
 その私の眼の前で正木博士は、さも堪《たま》らなさそうに腹を抱えた。小さな身体《からだ》から、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑い痴《こ》け初めた。葉巻の煙に噎《む》せて、ネクタイを引き弛《ゆる》めて、チョッキの釦《ぼたん》を外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声|毎《ごと》に、室中《へやじゅう》の空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。アッハッハッハッハッハッ。ああ可笑《おか》し……ああたまらない……憤《おこ》ってはいけないよ君……今まで云ったのは嘘にも何にも、真赤な真赤な金箔《きんぱく》付のヨタなんだよ……アハ……アハ……併し決して悪気で云ったんじゃないんだよ。本当はあの青年……呉一郎と君とが、瓜二つに肖通《にかよ》っているのを利用してチョット君の頭を試験して見たんだよ」
「……ボ……僕の頭を試験……」
「そうだよ。実を云うと吾輩はこれから、あの呉一郎の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっと解らない事がブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないと飛んでもない感違いに陥る虞《おそれ》があるんだ。現に今でも君の方から先にあの青年を『自分と双生児《ふたご》に違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがって滅茶《めちゃ》になって終《しま》うから一寸《ちょっと》予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」
 私は本当に夢から醒めたように深呼吸をした。今更に正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛い処に手を遣《や》った。
「……しかし、僕のここん処《とこ》が、今急に……疼《うず》き出したのは……」
 と云いさして私は口を噤《つぐ》んだ。又笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。
 しかし正木博士は笑わなかった。恰《あたか》もそうした痛い処が私の頭の上に在るのを、ズット以前《まえ》からチャンと知っていたかのように、事もなげな口調で、
「ウン……その痛みかい」
 と云ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。
「それはね……それは今急に痛み出したのではない。今朝《けさ》、君が眼を醒ました前から在ったのを、今まで気が付かずにいたんだよ」
「……でも……でも……」
 と私はまだふるえている指を一本ずつ正木博士の前で折り屈《かが》めた。
「……今朝から理髪師《とこや》が一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここん処《とこ》を掻きまわしているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」
「何遍引っ掻きまわしていたって、おんなじ事だよ。自分が呉一郎と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎の姿と、自分の姿が生き写しだという事がわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有は悉《ことごと》く『精神』を対象とする精神科学的の存在に過ぎないので、所謂唯物科学では、絶対、永久に説明出来ない現象が存在する事を如実に証拠立て得る事になるという、トテモ八釜《やかま》しい瘤《こぶ》なんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉一郎の心理遺伝の終極の発作と密接な関係があるのだ。というのは呉一郎は昨夜《ゆうべ》、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ち付けて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の頭に残っているのだ」
「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎……」
「ママ……まあソンナに慌てるな
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