姿……。
 その悽惨《みじめ》な姿をアリアリと現実に見た一瞬間、私は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔を蔽《おお》うた。……とても正視出来ないほどの驚きと……恐れと……云い知れぬ神経の緊張に打たれて……。
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……呉一郎はあそこに居るじゃないか。あれは彼《か》の遺言書の中に書いてあった呉一郎の姿に違いないじゃないか。そうしてあれが呉一郎に間違いないとすれば……ここに立っている私は一体、何者であろう……。
……たった今窓の外を覗いた一瞬間に、私自身が、私自身から脱け出して行って、姿をかえてあそこに突立っているような……それを、あとに残った魂魄《たましい》だけが眺めているような……そんなような陰惨な、悽愴とした感じ……。
……もしや今見たのは私の幻覚ではなかったろうか。白昼の夢というものではなかったろうか……。
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 頭の中で電光のように、こう考えまわしつつ……何ともいえず息苦しい、不可思議な昂奮に囚《とら》われつつ、私は又も、徐《しず》かに眼を開いてみた。
 しかし解放治療場内の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い青い空……赤い煉瓦塀……白く眩《まぶ》しく光る砂……その上を逍遥《さまよ》う黒い人影……。
 その時に、私の前に立って、何かしら考え込んでいた正木博士は、やおら私をふり返って、何気なく窓の外を指《ゆびさ》した。
「……どうだい……ここがどこだか知っているかね君は……」
 けれども私は返事が出来なかった。只|微《かす》かに首肯《うなず》いて見せたばかりであった。それほど左様《さよう》に私は眼を開いた次の瞬間から、何ともいえぬ異様な場内の光景に魅せられてしまったのであった。
 青空の光りと照し合っている場内一面の白砂の上を、ウロウロと動きまわっている患者たちの黒い影は、殆ど全部が、最前の遺言書に描きあらわしてあった通りの仕事を、そのままに繰返していた。恰《あたか》も、その一人一人の一挙一動が、正木博士の心理遺伝の原則を、実地に証明する芝居ででもあるかのように……儀作老人は依然として鍬《くわ》を揮《ふる》いつつ、今一本の新らしい砂の畝《うね》を作り……青年呉一郎はやはり、こっちに背中を向けながら、老人の前に突立って、鍬を動かす手許を一心に見守っている。……年増女《としまおんな》は、ボール紙の王冠を落したのを気付かぬまま、威張ってあるきまわり……それを拝んでいた髯面《ひげづら》の大男は、拝みくたびれたかして、砂の中に額《ひたい》を突込んで眠り……小男の演説家は煉瓦塀に拳固を押し当てて祈り……痩せた青黒い少女は、老人の作った新しい畝に植えるものを探すらしく、キョロキョロと場内を物色してまわっている。そのほかの連中も、その位置が違っているように思えるだけで、やっている仕事の意味は、最前読んだ遺言書の説明とすこしも違わない。唯……最前から歌を唄って踊りまわっていた筈の、舞踏狂らしいお垂髪《さげ》の女学生が、私たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が這入るような砂の穴を掘って、ボール紙の王冠と、松の枯れ枝を利用しながら、小さな陥穽《おとしあな》を作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけである。しかし、いずれにしても正木博士がたった今話した、昨日《きのう》の正午の大惨事というのは、いつ、どこで、どの狂人が起したものか、そんな形跡さえ見えないのが、私には不思議に思われて仕様がなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、それとも硝子《ガラス》窓越しに眺めているせいか、すべてが影のようにヒッソリと静り返っている。その薄気味わるさ……こころみに人数を数えてみると、やはり遺言書に書いてある通りの十人で、殖《ふ》えても減ってもいないのはどうした事であろう。
 しかも、更に不思議な事には、その何も変った事のない、静かにハッキリした光景を見下しているうちに、この十人の狂人の心理遺伝を利用して、正木博士が仕掛けておいたという精神科学的の大爆発……正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじきに初まろうとしている……それは昨日の事でもなければ一昨日《おととい》の事でもない。たった今、眼の前に起りかけている事実なのだ……という予感がして、しようがないのであった。否……場内に居る狂人ばかりではない。向うの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤煉瓦の大煙突……その上から、たった今吐き出され初めた黒い黒い煤煙のうねり……その上にまん丸くピカピカ光っている太陽までもが、何等かの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々にその空前絶後の大事変の方へ切迫して行きつつあるのではないか……というような底知れぬ冷やかな、厳粛な感じが、頻《しき》りに首すじの処へ襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢する事が出来なかった。そんな馬鹿な事が……と思えば思う程そう思えて仕様がなくなって来るのであった。私はそうした神秘的な……息苦しい気持を押え付けよう押え付けようと焦燥《あせ》りつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎のうしろ姿を、異様な胸の轟きのうちに凝視した……。
 その時であった。私の耳の傍で突然に、低い、囁《ささ》やくような声がしたのは……。
「何を見ているのだね……君は……」

 その声の調子は、今までの正木博士のソレとは丸で違っていたので、私は又もドキンとして振り返った。
 見ると正木博士は、いつの間にか私のすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑が、あとかたもなく消え失せていて、鼻眼鏡の下に真黒い瞳を据えたまま穴のあく程私の横顔を睨みつけているのであった。
 ……私は深い溜息を一つした。そうして出来るだけ気を落ち付けて返事をした。
「解放治療場を見ているのです」
「フ――ウ――ム」
 と腹の底で唸《うな》った正木博士は、やはり瞬き一つせずに私の瞳を見据えた。
「フ――ム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」
 私は正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。
「ハイ……狂人が十人居るようです」
「……ナニ……狂人が十人……」
 と慌てた声で云いさした正木博士は、何かしら余程驚いたらしく、今一度グッと私を睨み付けた。
 その視線を横頬に感じながら、私は又も解放治療場内をふり返って、呉一郎のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、私と顔を合わせそうな気がして……そうしたら、何かしら大変な事が起りそうに思えて……身体《からだ》じゅうが自然《おのず》と固くなるように感じつつ……。
「ウーム……」
 と正木博士は私の横で気味のわるい程ハッキリと唸った。
「あの中で狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるかね君には……」
 私は無言のままうなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。
「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」
 私は又、うなずきつつ振り返った。
「ハイ。キッチリ十人おります」
「……ウ――ム……」
 と正木博士は唸った。真黒い眼の球《たま》を奥の方へ凹《へこ》ませながら……。
「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞこれは……」
 と独言《ひとりごと》のように云いつつ、徐《おもむ》ろに私の顔から視線を外《そ》らして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え込んでいるようであった。がやがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつ私を振り返った。窓の外を指しつつ快濶《かいかつ》な口調で問うた。
「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」
「ハイ。おります」
「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」
 私は正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。
「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」
「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」
 正木博士がこう云いさした時、私の全身は何故《なにゆえ》か知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。
 その時に正木博士に指《ゆびざ》されていた青年……呉一郎のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。私達の覗いている硝子《ガラス》窓越しに、私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝《けさ》程、あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、腮《あご》の薄い……と思う間もなく、又も、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった……ように思う……。
 ……私はいつの間にか両手で顔を蔽《おお》うていた。
「……呉一郎は……私だ……私は……」
 と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。
 それを正木博士が抱き止めてくれた。そうして噎《む》せかえるほど芳烈な、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思うが、何が何であったかハッキリとは記憶しない。唯、その時に正木博士が、私の耳の傍で怒鳴《どな》っていた言葉だけが、切れ切れに記憶に残っているだけであった。
「……しっかりしろ。確《しっか》りしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くんじゃない。ちっとも不思議な事はないんだ。……確りしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前の事なんだ。学理上にも理屈上にも在り得る事なんだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」
 私はこの時、よく気絶して終《しま》わなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それでも、どこか遠い処へ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、すこしずつすこしずつ呼び返して、もとの硝子《ガラス》窓の前にシッカリと立たせる迄には何遍眼を閉じたり開《あ》いたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでも私には今一度窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。頭《こうべ》を低《た》れて床のリノリウムを凝視《みつめ》たまま、何回も何回もふるえた溜め息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキーの芳香《におい》を吹き散らし吹き散らししていたのであった。
 正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち付いたように咳払いをした。
「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生れたのだからね」
「……エッ……」
 と叫んで私は正木博士の顔を睨んだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉一郎をふり返るだけの勇気が出た。
「……ソ……それじゃ僕と、あの呉一郎とは双生児《ふたご》……」
「イイヤ違う……」
 と正木博士は厳格な態度で首を振った。
「双生児《ふたご》よりもモット密接な関係を持っているのだ。……無論他人の空似でもない」
「……ソ……そんな事が……」
 と云い終らぬうちに私の頭は又、何が何やら解らなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。冷かしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。
 正木博士の顔には見る見る私を憫《あわ》れむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、又吐き出した。
「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔か
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