たように思うので御座いますが、日が暮れるまえにチョット妙な事が御座いました。……私はそれから裏口の梔子《くちなし》の蔭に莚《むしろ》を敷きまして、煙管《きせる》を啣《くわ》えながら先刻《さいぜん》の蒸籠《せいろ》の繕《つくろ》い残りを綴《つづ》くっておりましたが、そこから梔子の枝越しに、離家の座敷の内部《ようす》が真正面《まむき》に見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那は離家のお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしらオモヨさんに云い聞かせて御座るようで……硝子《ガラス》雨戸の中ですから声はわかりませぬが、お顔の色が平生《いつも》になく青ざめて、眉がヒクヒクと動いているあんばい[#「あんばい」に傍点]は、まるで何か叱って御座るようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでも御座いません。当の相手のオモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイで御座いました。
――ところがそれを見ると若旦那はいよいよ青い顔になられまして、オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。そうしてここから見えます、あの三ツ並んだ土蔵《おくら》の方角を指さして見せながら、片手をオモヨさんの肩にかけて、二三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって身体《からだ》をすぼめていたオモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に土蔵《おくら》の方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのか解らぬような風付《ふうつ》きで、水々しい島田の頭をチョットばかり竪《たて》に振ったと思うと、首のつけ根まで紅くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。
――するとその態度《ようす》をジット見て御座った若旦那は、オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になって硝子《ガラス》雨戸越しにそこいらをジロジロと見まわして御座るようでしたが、やがて軒先《のきさき》の夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いました事というものは、思わずゾッと致しました位で……ヘイ……けれども真逆《まさか》、それがあのような事の起る前兆《まえおき》とは夢にも思い寄りませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思い忙《せわ》しさに紛《まぎ》れて忘れておりましたような事で……ヘイ……。
――それから昨晩、家中《うちじゅう》の者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の二時頃の事で御座いましたろうか。花嫁御のオモヨさんと、母親のお八代さんとは母屋《おもや》の奥座敷に……それから花婿どんの若旦那と、親代りの附添役になりました私は、離家《はなれ》に床を取って寝《やす》みました。尤《もっと》も私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に這入りまして、離家の戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間になっている処へ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、今朝《けさ》ほど、まだ薄暗いうちに眼が醒めましたので、便所へ行こうと思いまして、二方|硝子《ガラス》雨戸の薄ら明りを便《たよ》りに若旦那のお室《へや》の前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前の硝子雨戸が又一枚開いてあります。それからお室の中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙な事……と思いますとチョット胸騒ぎが致しましたが、外は小雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋の処が一枚開いて、そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようで御座います。私はそこで又チョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷の硝子障子を覗き込みますと、暗い電燈の下に、お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてあるオモヨさんの寝床は藻抜《もぬ》けの殻で、夜具が裾の方に畳み寄せてありまして、緋《ひ》ぐくしの高枕が床のまん中に置いてある切りで御座います。
――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見た事を思い出しまして……ナアンダ、そんな事だったか。それなら別段心配せんでもよかったに……と、どうやら胸を撫で卸《おろ》しました。……が……しかし又考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさる事にしてはチョット様子が可怪《おか》しいと気がつきましたので、又、何とのう胸騒ぎがし初めました。やっぱり虫が知らせるというもので御座いましつろうか……とにかく自分の手落ちになってはならぬ。皆が起きぬうちに……と思いましたから、お八代さんを起したので御座いますが、私がオモヨさんの寝床を指さしまして、コレコレと申しますと、眼をこすっておりましたお八代さんはハッとした様子で……「この頃一郎が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不意に妙な事を尋ねながら、寝床の上にピタリと座り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「……ヘエ……昨日《きのう》、石切場で会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んで御座ったようで……」と申しましたが、その時のお八代さんの血相の変りようばっかりは今でも忘れません……「又出て来たか――ッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリと噛んで、両手を握り固めてブルブルと慄《ふる》わして、眼を逆様《さかさま》に釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意)ようになりました。私は何事か判らぬままに胆《きも》を潰《つぶ》しまして、尻餅《しりもち》をついたまま見ておりますと、やがてお八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのを袂《たもと》で拭い上げまして、泣き笑いのような顔をしながら「イヤイヤ。私の思い違いかも知れぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこに居るか探しておくれ」と云うて立ち上りました。その時はもう平生《いつも》とかわらぬ風付《ふうつ》きで、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほど周章《うろた》えて御座ったと見えまして、跣足《はだし》で表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄を穿《は》いて蹤《つ》いて行きました。
――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、間もなく離家《はなれ》の前の……ここから見えますあの一番右側の三番|土蔵《ぐら》の前まで来ました時に、私は土蔵《くら》の北向きになっている銅張《あかがねば》りの扉《と》が、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行くお八代さんを引止めて指をさして見せました。あとから考えますとこの三番土蔵は、麦秋《むぎ》頃まで空倉《あきぐら》で、色々な農具が投げ込んでありまして出入りが烈《はげ》しゅう御座いますので、若い者がウッカリして窓を明け放しにしておく事がチョイチョイ御座いました。この時なぞもそうだったかも知れませぬので、別に不思議がる事はなかった筈で御座いますが、昼間の事を思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……するとお八代さんもうなずきまして、土蔵《くら》の戸前の処へまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、土戸《つちど》は微塵《みじん》も動きません。すると、お八代さんは又うなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の梯子《はしご》を自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、私に登って見よと手真似で云いつけましたが、その顔付きが又、尋常で御座いません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ灯火《あかり》がさしている模様で御座います。
――私は御承知の通り大の臆病者で御座いますから、どうも快《よ》い心地が致しませんでしたが、お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付では御座いませんので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を端折《から》げまして、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたので御座いますが……覗いている中《うち》に足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓の所にかけておりました両手の力が無くなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上る事も逃げ出す事も出来なくなりました。
――ヘイ。その時に見ました窓の中の光景《ありさま》は、一生涯忘れようとして忘れられません。そのもよう[#「もよう」に傍点]を申しますと、土蔵《くら》の二階の片隅に積んでありました空叺《あきがます》で、板張りの真中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上にオモヨさんの派手な寝巻きや、赤いゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]が一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水の滴《したた》るような高島田に結《ゆ》うたオモヨさんの死骸が、丸裸体《まるはだか》にして仰向けに寝かしてありまして、その前に、母屋《おもや》の座敷に据えてありました古い経机《きょうづくえ》が置いてあります。その左側には、お持仏《じぶつ》様の真鍮《しんちゅう》の燭台が立って百|匁蝋燭《めろうそく》が一本ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるように思いましたが、細かい事はよく記憶《おぼ》えませぬ。そうしてそのまん中の若旦那様の前には、昨日《きのう》石切場で見ました巻物が行儀よく長々と拡げてありました……ヘイ……それは間違い御座いませぬ。たしかに昨日見ました巻物で、端《はじ》の金襴《きんらん》の模様や心棒(軸)の色に見覚えが御座います。何も書いてない、真白い紙ばかりで御座いましたようで……ヘイ……若旦那様はその巻物の前に向うむきに真直に座って、白絣《しろがすり》の寝巻をキチンと着ておられたようで御座いますが、私が覗きますと、どうして気《け》どられたものか静かにこちらをふり向いてニッコリと笑いながら「見てはいかん」という風に手を左右に振られました。尤も、斯様《かよう》にお話は致しますものの、みんな後から思い出した事なので、その時は電気にかかったように鯱張《しゃちば》ってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中で御座いました。
――お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようで御座いますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えませぬ。土蔵の窓を指《ゆびさ》して何か云うておったようにも思いますが……そうするとお八代さんは何か合点《がてん》をしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました。私は止めようとしましたが腰が立たぬ上に歯の根が合わず、声も出ませぬので、冷い土の上に、うしろ手を突いたまま見上げておりますと、お八代さんは前褄《まえづま》をからげたままサッサと梯子を登って、窓のふち[#「ふち」に傍点]に手をかけながら、矢張《やっぱ》り私と同じようにソロッと覗き込みました。……が……その時のお八代さんの胆玉《きもたま》の据《す》わりようばっかりは、今思い出しても身の毛が竦立《よだ》ちます。
――お八代さんは窓から、中の様子をジッと見まわしておりましたが「お前はそこで何事《なんごと》しおるとな」と落付いた声で尋ねました。そうすると中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り初めますから……」と返事なさるのがよく聞えます。四囲《あたり》がシンとしておりますけに……そうするとお八代さんは、チョット考えておるようで御座いましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。それよりも最早《もう》夜が明けとる故《けん》、御飯をば喰べに降りて来なさい」と云いますと、中から「ハイ」と云う返事がきこえまして、若旦那が立上られた様子で、窓際に
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