関する報道を新聞紙上に発見するや、極めて稀に存在する夢遊病の好適例に非《あら》ずやと思惟《しい》して出張したるところ、この直方《のうがた》地方は元来筑豊炭田の中心地に位置し、日本屈指の殺傷事件の本場たり。従って警察方面の捜索方針も単純|且《かつ》粗放にして、現場の証拠等は事件発生の翌日に於て、完膚《かんぷ》なき迄に攪乱蹂躙《かくらんじゅうりん》されおり、充分なる調査を遂《と》ぐるを得ず、然《しか》れ共|尚《なお》、現場の形況及び前記各項の談話、警察当事者の記憶、近隣の噂等を綜合したる結果、この事件の特徴として左の諸項を認め得たり。
(甲[#「甲」は太字])犯行の現場たる女塾内には、呉一郎|母子《おやこ》と塾生に関する事跡及び勝手口の唯一の締りとされおりたる径約一|寸《すん》、長さ四尺一寸|余《あまり》の竹の支棒《つっかいぼう》が、不明の原因にて土間に脱落しおりたる以外に、犯人の指紋、足跡等の一切を認め居ず、拭い消したるものなるや否やも不明なり。尚《なお》、右支棒は外より板戸を強く押せば、指をさし入れて外《はず》し得る位置に在りたるものなる事を推定し得たり。而して右板戸の縁辺《ふちへん》の支棒に接触する部分は、磨滅を防ぐためと支棒の作用の堅確を期するため、新しく亜鉛《あえん》板を以て蔽《おお》いありたるも、這《こ》は却《かえ》って軽微の力を以て、支棒を脱落せしめ得る原因となりたるものの如し。
(乙[#「乙」は太字])被害者千世子は同夜午前二時――三時の間に、背面より絹製の帯締《おびじめ》を以て絞殺され、寝具を蹴散《けち》らし、畳の上を輾転《てんてん》して藻掻《もが》き苦しむなど、甚しき苦悶の跡を残したるまま絶命せるものを、更に階段の処に持行きて手摺《てすり》より細帯にて吊し下げ、階段の降り口に正面させて縊死《いし》と見せかけたる事明らかなり。しかも、その絞首の跡を示す斑痕が、二重もしくは三重となりおる状況は、犯行当時に於ても明瞭に認められし事を察し得るに拘わらず、更にこれに縊死を装《よそ》わしめたるは、一見、浅薄なる犯行隠蔽の手段なるが如きも、実は左《さ》に非《あら》ず、他の指紋等を消去りたる犯人の行動と比較考慮する時は、その矛盾せる行為の相互間に生ずる一種の錯覚を以て、犯人に対する目星《めぼし》を誤らしめんがために執《と》りたる極めて巧妙なる手段なりと思惟《しい》し得べし。
尚、被害者の手中その他には何物も止《とど》めず。或は軽き麻酔を施されたるものに非ずやとも疑わる。
尚又、当時犯行用と認められし帯締めは、その後、数名の警官の手に転々したる後《のち》なりしを以て、何等犯人に関する証跡を検出するを得ず。
(丙[#「丙」は太字])呉一郎は、麻酔を施されたるものなる事を、同人の談話に現われたる予後の諸徴候に依りて推測し得べし。
(丁[#「丁」は太字])屍体は死後約四十時間目に、同女塾の裏庭に於て、舟木医学士立会、余(W氏)執刀の下に解剖の結果、最近に於ける性交の形跡なく、子宮には、嘗《かつ》て一児を孕《はら》みたる痕跡を止《とど》むるのみなる事を確かめ得たり。
如上《じょじょう》の事実に依《よ》り犯人及び犯行の目的等に関する推定は殆んど困難なり。然れども、犯人は相当の学識あり、麻酔剤の使用に慣れ、思慮深く、且つ腕力|逞《たく》ましからざる者なる事、及び犯行が呉一郎に及ぶ事を好まざりし者なる事を推測し得《う》べし。(中略)。その筋の捜索方針は、初め如上の推定に基《もとづ》きて進行し、呉一郎を釈放したるも結局、再びこの方針を放棄し、純然たる見込捜索に移りたるため、遂《つい》に何等|得《う》るところなく、事件は所謂《いわゆる》迷宮裡に遺棄さるるに到りたり。(下略)
▼右に関する精神科学的観察
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この事件は著者(正木)自身が直接に調査したるものに非《あら》ざるを以て、専門の精神科学的の考察と説明には多少の不便を感ずるものなり。然れどもW氏が、同氏独特の法医学的の見地に立ちて調査記録したる、この事件の各種の特徴に依て観察する時は、この事件の真相が現代の所謂、科学知識及び、これに伴う所謂常識の発達範囲に於ては、到底判断し且《かつ》、説明し得べからざる「心理遺伝の発作」にあること疑《うたがい》を容れず。筆者の所謂「犯人無き犯罪」の最も顕著なる好適例なり。すなわちW氏の最初の直覚が適中しおりたる事を、一切の事象が指しいる事を一々摘出、明示し得べし。W氏が事件後も尚《なお》、この点に関する疑念を捨てず、前掲の如き貴重なる談話を記録せる、その用意の周到なるに、劈頭《へきとう》の敬意を表せざるを得ざるものなり。
乃《すなわ》ち前記W氏の観察と、三項の談話とを通じて、この事件の真相を究《きわ》むべき、観察要項を列挙すれば左の如し。
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【一】 呉一郎の性格と性的生活
呉一郎は当時満十六年四ヶ月の少年なるが、此《かく》の如き母性愛を主とせる家庭に人となり、且つ平生若き女性に接する機会を有する文弱明敏、且つ発育円満なる少年に有り勝ちの特徴として事件発生前より、既に十分の性的充実を来《きた》しおりたるも、その母性愛の純美さと、自己の頭脳の明晰さとに品性を浄化されて、これを肉体的に発露し得るが如き心理の欠陥を有せず、無垢《むく》の童貞を保ちおりたるものと認めらる。異性の唱歌を傾聴したる旨を告白し且つ赤面せるが如きは、かかる性格を有する斯《かか》る時代の少年の特徴と認むるを得べく、又、談話中の到る処に発見さるる可憐なる率直さ、及び自身が犯人として眼指《めざ》さるるべき理由の動かすべからざるものあるを自覚しつつも、自己の立場に対する何等の恐怖を感ぜざりし事実等より推して、その心理に微小の暗影をも止《とど》めざる、清浄純真の童貞生活を送り来《きた》りし者なる事を察知し得べし。而《しか》して右年齢と性的生活の推定は、この事件に関する精神科学的観察の全部に影響する、重要なる断定の基礎となるべきものなるを以て、特に冒頭に掲げて、注意を促す所以《ゆえん》なり。
【二】 夢遊状態を誘発せし暗示
事件発生の当夜、午前一時前後に覚醒して、母の寝顔を見たる時、異常の美しさを感じたりという呉一郎の告白は、前記の観察の妥当なる事を裏書せると同時に、同夜に於ける呉一郎の心理遺伝の発作、即ち夢遊状態発生の暗示[#「暗示」に傍点]が如何なる性質のものなりしかを説明しおるものと認め得べし。即ち、夜半の覚醒が、性的の衝動の高潮と切実なる関係を有せる事実に徴《ちょう》する時は、当時の呉一郎の精神状態は、或る危機の最高潮に瀕《ひん》しおりたるものなる事、前記の告白によって明かなるべし。而《しか》してその危機は、同人が一度階下に降りて用便し、再び二階に昇り来《きた》りたる間に著しく緩和されたる筈なり。且つ、その刺戟の対象たる母親千世子が、後《うしろ》向きになりたる姿を見たるがために、些《すく》なからず幻滅されて、平生の埋智に帰りて就寝したるものなる事も亦《また》察するに難《かた》からず。然れども此《かく》の如くにして一時抑圧されたる性的の衝動は、呉一郎が熟睡に陥るや、その無意識界に潜在せる、或る恐るべき心理遺伝を刺戟して、夢中遊行状態を誘発し(後出第二回の発作の項参照)、遂《つい》に斯《か》かる兇行を演ぜしめたるものなる事を、以下|縷述《るじゅつ》するところの各項の理由に照して、逐次了解するを得《う》べし。
【三】 呉一郎の第一回覚醒と夢中遊行との関係
呉一郎が、同夜に限りて夜半の覚醒を見たるは、同人が従来あまり経験したる事なき異状なる出来事なる旨陳述せるが、右は又、適々《たまたま》以て、その後の睡眠間に於ける夢遊状態の存在を指示しおれる一徴候と認め得べき理由あり。然れども、この理由を明かにする以前に於て、必然的に考慮せられざるべからざる一事は、勝手口の支棒《つっかいぼう》の落ちたる音が、呉一郎の第一回の覚醒の原因となりおれる如く思惟されおることなり。右は呉一郎本人も、然《し》かく信じおれるが如くなるも、這《こ》は睡眠中の感覚作用と、覚醒時の知覚作用とを同一視せるより出でたる誤解にして、甚だ軽率なる判断なりと認むるに躊躇《ちゅうちょ》せず。何となれば睡眠中に或る音響を耳にして、直ちに覚醒したりと信じたるものが、覚醒後の正確なる判断力に依ってこれを検する時は、その間《かん》に数分、甚だしきに到っては一二時間の睡眠を経過せる事を発見する例、些《すく》なからず。その最極端なる一例は、所謂《いわゆる》、朝寝坊が起さるる時にして、数回に亘る呼び声に応答しつつ、又も熟睡に陥り、日|三竿《さんかん》に及びて蹶起《けっき》して、今日は唯一回の呼声にて覚醒したりなぞ主張する事珍らしからざるは、世人の周知せる事例なり。睡眠中に感じたる音響と、これに依って刺戟されたる覚醒との間に於ける、経過時間に対する錯誤の如何に甚だしきかは、この一事を以てしても充分に立証し得べし。況《いわ》んや、夢中に於て、明かに物音を知覚して覚醒したるにも拘らず、その後の冷静なる検査に依りて何事もなかりしを知る場合極めて多きに於てをや。これに依ってこれを観《み》れば、支棒《つっかいぼう》の落ちたる音と、呉一郎の覚醒との間に必然的の因果関係を認むるは、正確なる推理の進行上|頗《すこぶ》る危険なる所業にして、寧《むし》ろ、右二ツの現象を全然無関係のものとして、この事件を観察する方、自然に近きものと言うを得べし。況《いわ》んや更に、これを呉一郎の覚醒後の異常なる気持ちと直接に結び付けて、外より何者かが入り来りて、麻酔剤を施しつつ、この兇行を演じたりと速断するが如きは、非常なる冒険、且つ、不合理と評するも敢《あえ》て過言に非《あら》ざるべし。
而《しか》して、右の支棒の脱落と思い誤られたる夢中の音響の正体に就《つい》ては、別に発表し得べき重要なる研究資料を有すれども、右は頗《すこぶ》る広汎なる実例と、極めて精密詳細なる心理学的の説明を要するを以て、ここには大略し、唯《ただ》「夢中に於て実在せざる音響を感ずる場合」のうち、睡眠自体を破る程に著しき実例の二三を挙げて参考とするに止《とど》むべし。
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(a)[#「(a)」は縦中横] 夢中に感ぜられつつある幻象の進行が、急に或る行詰まりを生じたる場合……たとえば、或る一種の感情(喜怒哀楽等)が急速に高潮して極点に達すると同時に、何物かの爆発、散乱、又は落下の光景を幻視せし瞬間……等……。
(b)[#「(b)」は縦中横] 夢の進行が突然、或る無限の深さを有する空虚に陥りたる場合……たとえば、世界の涯《はて》より踏み外《はず》し、又は、闇黒の谷に墜落したる刹那《せつな》……等……。
(c)[#「(c)」は縦中横] 夢中に進行しつつありし或る二つの心理現象が、突然に交叉し、又は衝突したる場合……たとえば、或る者を恐れつつ行いおりし秘密の仕事が、その恐れおりし或る者に発見されし刹那、又は、衝突を憂慮しつつありし汽船、又は自動車等が、果して急激に進路を曲げ来りて、眼前に衝突したる瞬間……等……。
(d)[#「(d)」は縦中横] 夢の中に進行しつつありし事象が、全然予期せざる、正反対の心理の対象たるべく急変したる場合……たとえば、親友が兇漢なる事を発見し、又は、同伴者が急に恐ろしき者に変じ、或は又、快適なる室内の諸器物、楽しき花園の花等が、自己の最も恐怖|嫌忌《けんお》する形象物体等に変化したる刹那……等……。
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右に依って観察する時は、夢の中に感ぜられる、非実際的の音響の正体なるものは他に非《あら》ず。すなわち夢の進行中に於て[#「夢の進行中に於て」に傍点]、突然[#「突然」に傍点]、不可抗的に受けたる驚愕[#「不可抗的に受けたる驚愕」に傍点]、恐怖[#「恐怖」に傍点]、歓喜[#「歓喜」に傍点]、その他の心境の急変化と[#「その他の心境の急変化と」に傍
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