朝の御飯も頭が痛むのでそのままにしていましたが、あんまりお腹が空《す》いて来ましたので、お昼のを頂きますと大変にお美味《いし》くて頭の痛いのがすっかり癒《なお》りました。それから夕方になりますと、僕の母ソックリの女の人が面会に来ましたのでビックリしましたが、それはこの伯母でしたので、僕は生れて初めて会った訳なのです。その時にこの伯母も先生(W氏)と同じ事を云いました。「何か夢を見ていやしなかったか」って……。けれどもその時はどうしても思い出せなかったものですから、何も知らないと答えました。……でも麻酔剤を嗅《か》がされていた事なんか、ちっとも知らなかったものですから……。
――あくる日になると先生(W氏)がお出《い》でになるし、中学にいた時の僕の受持ちの鴨打《かまち》先生も会いに来て下さいました。その又あくる日になったら裁判所からも人が来て親切にいろんな事を聞いたりして何だか赦《ゆる》されそうなので、僕は母がどんなになっているか、見に行きたくて堪《たま》りませんでしたが、一昨日《おととい》帰って見ますと、母の遺骸《からだ》はもう火葬にしてありましたのでガッカリしました。僕の家《うち》には写真が一枚もないので母の顔はもう見られないのです。けれども明日《あした》はこの伯母が、僕を姪《めい》の浜《はま》の自宅《うち》に連れて行ってくれると云いますし、モヨ子っていう従妹《いとこ》もいるそうですから、そんなに淋しくはないだろうと思います。
――僕が一番好きなのは語学ですが、その中《うち》でも一番面白いのは外国の小説を読むことで、特にその中《うち》でもポーと、スチブンソンと、ホーソンが好きです。みんな古いって云いますけど……今に大学に這入ったら精神病を研究してみようかとも思っている位です。ホントウは文科に入って各国の言葉を研究して、母と一緒に父の行衛《ゆくえ》を探しに行きたいと考えていましたが、父の事に就いては母が極く少しばかりしか話さずに死んでしまいましたのでガッカリしています。その外に、今のところでは、どんな者になろうとも思っておりません。国語や漢文も嫌いではありませんが、中学を出た後《のち》にはわざわざ勉強しようとは思いませんでした。その次に好きなのは歴史と博物で、つまらないと思ったのは地理と物理と数学でした。一番できないのは唱歌ですが、それでも聴くのは大好きです。いい西洋音楽のレコードを聴いたりしますと、名画を見ているような気持になります。民謡なぞも母が機嫌がいいと、よく塾生と一緒に謡《うた》いましたから、好《い》いなあと思って聞いていました(赤面)。
――僕は今迄に病気した事は一度もありません。母も寝たことはないようです。
――僕はこれから、警察へ訪ねて来て下すった鴨打先生の処へお礼に行きます。
◆第二参考[#「第二参考」は太字] 呉一郎伯母八代子の談話
▼同所同時刻に於て、呉一郎が外出後――
――まったく何もかも夢のようで御座います。一郎《あれ》は私の妹の子に相違《ちがい》御座いません。眼鼻立ちが母親に生きうつしで、声までが私共の父親にそっくりで御座います。
――ずっと古い昔の事は存じませぬが、私の家は代々|姪《めい》の浜《はま》で農業を致しておりました。私共|姉妹《きょうだい》は母に早く別れましたが、父も私が十九の年の正月に亡くなりましたので、家の血統《ちすじ》は私と、この妹(位牌《いはい》をかえり見て)の千世子と二人切りになってしまいました。それで、その年の暮に私は、亡くなりました夫の源吉を迎えますと間もなく妹は「東京へ行って絵と刺繍《ぬいとり》の稽古をして、生涯独身で暮すから構わないでくれ」という置手紙をして家を出ました。それが明治四十年の新の正月頃の事で御座いましたが、その後、福岡で妹を見かけたという人もありましたけれどもハッキリした事はわかりません。やはり全く絵と刺繍《ししゅう》が好きなためで御座いましたろうと思います。一郎が申しますように、人並はずれて勝気な娘で、十七年の年に県立の女学校を一番で出た位で御座いますが、何か始めますと夢中になる性質《たち》で、夜通し寝ないで小説を読んだり、絵を描《か》いたりする事がよく御座いました。ことに刺繍《ぬいとり》は小学校にいました時から好きで、夕方暗くなりましても縁側に出て、図画用紙にお寺の襖《ふすま》の絵を写して来たのを木綿の糸屑で縫っている位で御座いましたから、私が夫を迎えたのを見澄《みすま》してその方の稽古を念《ねん》がけて行ったものと存じます。今から思いますとその時が今生《こんじょう》のお別れで御座いました。もっとも、田圃《たんぼ》や畑の荒仕事を嫌いますので、よく留守番をさせましたが、私の家は門の処から町並では御座いますし、出入りもかなりに多い方で御座いましたから、別に可怪気《おかしげ》ない事を仕出かして出て行ったものとも思われませぬ。
――それから後《のち》の妹のたよりは、明治四十年の暮に、東京の近くの駒沢村という処で、一郎という男の子が生れましたといって、村役場から知らせて参りましただけで御座います。その時もすぐに警察にお頼みして捜して頂きましたが、届出てあった所番地の家は、ずっと前から貸家になっておりましたものだそうで、なお、念のために私が出しておりました手紙も戻って参りましたので力を落しました。一郎が小学校へ入学致しました時の戸籍の書類《かきつけ》なぞはどうして取りましたものかわからないままに全くの音沙汰なしになっておりました。そうして私が二十三になりました年の正月に夫と別れますと間もなく、今居りますモヨ子と申します娘を一人生みましたから、それから後は娘と二人切りで暮しておりました。
――今度の事を新聞で見ました時は夢心地で馳付けて参りました。いろいろお調べを受けましたが、只今の通りお答を申上げておきました。
――初めて一郎を見ました時は思わず涙が出ました。その時に夢の事を尋ねましたのは、私の処に居ります若い者が読んでおりました活動の話に、夢遊病の事が書いて御座いましたからです。何か西洋《あちら》の事で、私どもにはよく解りませぬけれども、夢遊病に罹《かか》ってした事なら罪にならぬから、これから夢遊病の真似をして悪い事をしようか……なぞ若い者が申して笑っておりましたから、その事を思出しまして、もしやと思って尋ねて見たので御座いますが、女の癖に差出がましいとは存じましたけれども助けたいが一心で御座いましたから(赤面)。おかげ様で一郎が元の潔白な身体《からだ》になります許《ばか》りでなく、妹にも久しく不品行《ふしだら》な事が御座いません事が、亡骸《なきがら》をお調べ下さいましてから、お判りになりましたとの事で、これがせめてもの心遣《こころや》りで御座います。……で御座いますから私はここで立派に法事を営みましてから、お世話になりました皆様へも、世間並の御挨拶をして立ちたいと思います。
――昨日《きのう》、東京の近江屋《おうみや》の御主人からお香奠《こうでん》に添えてこのようなお手紙(略)が参りました。「宮内省のお役人から、お装束の修繕《つくろい》がさせたいからと頼まれて、妹の行衛《ゆくえ》を探しているところへ、警察から人が来られたので、初めて知ってビックリした」と申して参りましたが、その手紙の様子で見ますと妹が色々と身の上話をお聞かせしたその奥様は、もう亡くなっておられるようで御座います。妹もせめて今少し生きておりましたならば、よい目に逢ったかも知れませんが……何の怨《うらみ》か存じませぬが、このような酷《ひど》い事を致しました者が捕えられましたならば、八《や》ツ裂《ざき》にしてやりたい位に思います(落涙)。
――私の家は只今のところでは遠い親類しか居りませぬので、只今では親身の者と申しましては娘と私と二人切りで御座います。一郎はこれから私の子供分に致しまして、私の力一パイ立派な人間に育て上げて行きたいと存じますが……父無子《ててなしご》と位牌子《いはいご》をたよりに、暮すことを思いますと……(涕泣《すすりなき》)。
◆第三参考[#「第三参考」は太字] 松村マツ子女史(福岡市外|水茶屋《みずぢゃや》、翠糸女塾《すいしじょじゅく》主)談
▼同年同月四日[#「同年同月四日」は太字] 玄洋新報社朝刊切抜抜萃再録
――その刺繍の上手なお嬢さんが、この翠糸女塾に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃の事で、私が三十代の時ですから、詳しい事は判りませんねえ。エエ、通っていた事はたしかですよ。その頃が十七か八位でしたろうかねえ。ちょっと眼立たぬ風をしておられましたが、小柄なキリリとした別嬪《べっぴん》さんで、名前は虹野《にじの》ミギワさんと云いました。イイエ、間違いはありません。珍しい名前ですからよく憶えております。又今お話しになりました「縫い潰し」なぞいう刺繍のできる人は虹野さんより外に見た事がありません。
――虹野さんの作品は私の処には一つも残っておりません。その頃はまだ、そんな贅沢なものの値打ちが判りませんでしたので手間損だったのです。たった一度、二月《ふたつき》ばかりかかってこしらえた五寸四方ばかりの小袱紗《こぶくさ》を、私の塾の展覧会に出した事がありましたが二十円という値段付けだったので売れ残ってしまいました。今あったら大変なものでしょう。私も習っておけば良かったと思います。虹野さんはそんな風に技術《しごと》が良かった上に、小野|鵞堂《がどう》さんの字をお手本よりもズッと綺麗に書きましたので、私の弟子の刺繍に使う字をよく書いてもらいました。絵も却々《なかなか》上手で、私の処にある下絵の中でも良いのは大抵写して行かれました。けれどもかれこれ半年余りかよって来たと思うとパッタリ見えなくなりました。エ……その時姙娠の模様は見えなかったかって……いいえ、小柄な方でしたから直ぐに判る筈ですが……その色男が虹野さんを棄てて逃げたのですって? ヘエー左様ですか。ヘエー……。
――その頃住んでいた家ですか。サア、それは存じておればですが……その頃いた生徒はみんなもう四十近くのお婆さんになっているんですからネエ。ヘヘヘヘヘ。マア、その男が虹野さんを殺したらしいんですって。……おお怖《こ》わ! あんな別嬪さんを、まあ惜《おし》いこと……そういえば思い当る事があります。誰にも仰言《おっしゃ》っては困りますがね。虹野さんは大変な男喰いで、大学生の中でも失恋させられた人が二三人あったそうですよ。尤《もっと》もこれは噂だけですがね。その頃の虹野さんの家《うち》もどこか判らず、東から来たり西から来たり、帰りがけもその通りで、誰も本当の家《うち》を知っているものはありませんでしたよ。私の塾には品行の悪い人は一切入れませんでしたが、そんな風でどこが悪いといって取り止めた事は一つもなかった上に、本人がシッカリした風で仕事が上手だったもんですからね。いいえ写真なぞもありません。けれどもその頃の怨みにしちゃ、チット古過ぎますわねえ。ホホ……。
――ヘエッ、それがあの有名な迷宮事件の呉さんですって?……マアどうしましょう。どうして虹野さんが、呉さんという事が判ったんですか。ヘエ、東京の袋物屋のお神さんに身の上を話していた。只、男の名前だけが判らない……ヘエ、そうですか。どうぞこの事は内証にして下さい。云々。
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▲附記 呉一郎の第一回の発作に関する事件記録の要点は前掲三項の断片に残らず包含されおるを以て詳細は省略す。但、第三参考「松村女史の断片」は、余の所謂《いわゆる》「呉一郎の第一回発作」の参考としては全然不必要の範囲に属するも、この記録を作製したるW氏の主張を尊重する意味に於て、且又《かつまた》、該《がい》事件に関する司法当局の探査方針、及び当時の各新聞の記事が暗黙の裡《うち》にW氏の意見に影響されつつありし証左としてここに掲ぐるものなり。
[#ここで字下げ終わり]
◆右に関するW氏の意見摘要
余(W氏)は初め、この事件に
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