た(赤面)。
 ――あの晩も別に変った事はありませんでした。僕はいつもの通り九時頃に寝てしまいましたが、母がやすんだのは何時頃だったかおぼえません。いつもの通りなら十一時頃に寝たのでしょう。
 ――それから、これは警察では云いませんでしたが、あの晩僕は夜中に目を醒しました。こんな事は今まで滅多になかったのですから、話して疑われると詰《つま》らないと思いましたから……何だかわかりませんけれども、ゴトーンと大きな音がしたように思いましたから、フイと目を醒しましたが、真暗でわかりませんので、寝しなに枕許に近づけておきましたこの電気を捻《ひね》って、読みさしたままの書物の下になっている腕時計を見ますと、一時に五分過ていました。……それからお小用《こよう》に行こうと思って起上りがけに、こっちを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ますと、口を少し開《あ》いて、頬が真赤で、額が瀬戸物のように真白く透きとおっていて、不思議なくらい若く見えました。恰度《ちょうど》、家に来る大きい生徒位にしか見えませんでした。それから下に降りて用を足して、六畳と八畳の電燈をつけて見ましたが、何も変った事はありません。最前《さっき》、ゴトーンといったのは何だったのか知らんと考えて見ましたが、もしかしたら僕の思違いかも知れないと思いましたから又、二階に上って来て母の顔を見ますと、もう向うを向いて布団に潜っていて、櫛巻《くしま》きの頭だけしか見えませんでした。僕はそれから、すぐに電燈を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ません。
 ――それから警察署で先生(W氏)にお話しましたように変な夢ばかり見ていたのです。僕は夢なんか滅多に見た事はないのに、あの晩はホントに不思議でした。イイエ。人を殺すような夢は見なかったようですけど、汽車が線路から外《そ》れてウンウン唸りながら僕を追っかけて来たり、巨大《おおき》な黒い牛が紫色の長い長い舌を出してギョロギョロと僕を睨《にら》んだり、青い青い空のまん中で太陽が真黒な煤煙《すす》をドンドン噴き出して転げまわったり、富士山の絶頂が二つに裂けて、真赤な血が洪水のように流れ出して僕の方へ大浪を打って来たりして、とても恐しくて恐しくてたまりませんけど、何故だか足が動かなくなって、いくら逃げようとしても逃げられないのです。その中《うち》に家主《おおや》さんの養鶏所から鶏《とり》の啼《な》き声が二三度きこえたように思いましたが、それでも、そんな恐しい夢が、あとからあとからハッキリと見えて来ますので、どうしても醒める事ができません。ですから一所懸命になって苦しがって藻掻《もが》いておりますと、そのうちにやっとの思いで眼を開ける事が出来ました。
 ――その時にはもう、この窓の格子が明るくなっておりましたから、僕はホッと安心しまして、起上ろうとしますと、頭が急にズキンズキンと痛みました。それと一緒に口の中が変に臭いようで、胸がムカムカして来ましたので、これはきっと病気になったんだと思って又寝てしまいました。その時はちょっとのつもりでしたが、今度は夢も何も見ずに、汗をビッショリ掻いて、グーグー睡っていたようでした。
 ――すると又そのうちに、誰だかわかりませんが不意に僕を引きずり起して、右の手をシッカリと押えつけて、どこかへ連れて行こうとする者がいます。僕は寝ぼけたまま、やはり夢を見ているのかと思って、振り放して逃げようとしますと、又一人誰か来て、僕の左手を押えてズンズン梯子段《はしごだん》の方へ引っぱって行きました。その時にやっと気がついて振り返って見ますと、背広を着た人と、サアベルを引きずった巡査とが母の枕元に跼《かが》まって、何か調べているようでした。
 ――それを見ると僕は、キット母が虎烈剌《コレラ》か何かに罹《かか》ったのに違いない。そうして僕も同じ病気になっているから、こんな身体《からだ》の具合が変なのだろうと半分夢うつつのように思い思い、二人の男に引っぱられて行きましたが、その時の苦しかった事は未《いま》だに忘れません。何だか身体中が溶けるように倦《だ》るくって、骨がみんな抜け落ちそうで、段々を一つ降りる毎《ごと》に眼の前が真暗になって、頭の中が水か何ぞのようにユラユラして痛みます。それを立止まって我慢しようとしますと、下から急に片手を引っぱられましたので、思い切って転がるように段々を降りて行ったのですが、その途中でヒョイと顔を上げますと、階子段《はしごだん》に向い合った頭の上の手摺《てすり》から、私の母の色の褪めた扱帯《しごき》が輪の形になってブラ下がっているのが眼に這入りました。
 ――けれどもその時は、それが何故そうしてあるのか考える力もありませんでしたし、そのうちに又附いている男からヒドク小突かれて眼が眩《くら》みそうになりましたので、そのまま勝手口に来て、母が平生穿《ふだんば》きにしておりました赤い鼻緒《はなお》の下駄《げた》を穿いて横路次に出ました。その時に、もしや母はもう死んでいるのじゃないか知らんと思いましたから、ハッとして立止って左右を見ましたら、両手を押えている男というのは、顔だけよく知っている直方署の刑事と巡査で、怖い顔をして僕を睨みつけながら、グングン両手を引張って行きましたから、何も尋ねる事はできませんでした。
 ――往来は眩《まぶ》しい程日が照っていましたが、家の前には大勢の人が集《たか》っていて、僕が出て行きますと一斉にこっちを見ました。近くにいる人は逃げ退《の》いたりしましたが、僕はそんな人達の黄色く光っている顔を見ますと、又、眼がまわって倒れそうになりました。それと一緒に、頭の中がシインと痛くなって嘔《は》きそうになりましたので、額《ひたい》を押えようとしましたが、両手を押えられているので何も出来ません。その時に母は病気じゃない。殺されるかどうかしていて自分に疑《うたがい》をかけられているのだなと思いましたから、そのまま温柔《おとな》しく引かれて行きました。
 ――僕はその時にキット頭がどうかなっていたのでしょう。ちっとも悲しくも恐ろしくもありませんでした。けれども身体中が汗だらけで、背中や腰のまわりがビショビショになった白い浴衣の寝巻き一枚しか着ていませんでしたので、たまらない程ゾクゾクしました。その上に、頭の上から照りかかる太陽の光りが、変に黄臭《きなくさ》いような、息苦しいような感じがして気が遠くなりかけたり、口の中が腥《なまぐさ》くて嘔きそうになったりしましたので、時々眼をあけて、キラキラ光る地面《じべた》を見ながら、唾を吐き吐き歩きました。そうしたら、やっぱりお医者の処へ行くのじゃなくて警察の方へ曲って行きましたので、急に胸がドキドキしましたが、警察の入口の段々を上ると又、スッカリ落付いてしまいました。そうして何だか自分の事を書いた探偵小説を読んでいるような、夢見ているような気持になって、汚ならしい床板を見つめておりますと、不意に僕の背後《うしろ》で大きな声が聞えましたから、ビックリして振向きますと、それは僕を連れて来た刑事が怒鳴《どな》ったので、あとから跟《つ》いて来た大勢の人が警察の中へ這入ろうとするのを叱っているのでした。その中には知っている顔もあったように思いますが、誰だったかはっきり記憶《おぼ》えません。
 ――僕はそれから、奥の方にある狭い室《へや》で、木製のバンコ(九州地方の方言。腰掛の事)に腰かけさせられて、巡査部長や刑事から色々な事を訊《き》かれました。けれども、頭が割れるように痛んでいましたのでどんな返事をしたかスッカリ忘れてしまいました。「嘘だろう嘘だろう」って何遍も云われましたから「嘘じゃない嘘じゃない」と云い張った事だけは記憶《おぼえ》ていますけれど…………。
 ――そうすると間もなく、この直方の町中で知らない人はない「鰐《わに》警部」と綽名《あだな》のついている谷警部が這入って来まして、ダシヌケに「お前の母親《おふくろ》は殺されたんだぞ」と云いました。その時に僕は急に胸が一パイになって、どんなに我慢しても、声を立てて泣かずにはいられないような気持になりましたのを、一所懸命に我慢をして涙を拭いておりますと、暫らく黙っていた谷警部は「お前が知らない筈はない」と云って僕の前にある汚い木机の上に何か投げ出しました。それは母がいつも寝床の上に置いて寝る平生着《ふだんぎ》の帯締めで、紫色の打紐《うちひも》に、鉄の茄子《なす》が附いているのでした。何でもよっぽど古いもので、母が故郷を出る時から締めていたのだそうですが、しかし、それがどうしたのか、よく解りませんでしたから俯向《うつむ》いていますと「お前はこれで母親を締め殺したんだろう」と谷警部が雷《かみなり》のような声で怒鳴りました。アンマリ非道《ひど》いので僕はカッとなって、思わず立上って谷警部を睨みつけましたが、その時に又、頭が割れるように痛んで嘔き気がつきましたので、机の上に両手をついて、身体《からだ》をブルブル震わして我慢していました。けれども口惜《くや》しくて口惜しくて涙がポロポロ出て来るのを、どうしても止める事が出来ませんでした。
 ――谷警部はそれから又、いろんな事を云って僕を責めました。この警部はここいらの炭坑中の悪党が「鬼」とか「鰐」とか云って怖がっているのだそうですが、僕は何ともありませんでしたから、黙って聞いておりますと……今朝八時半頃、いつもの通り塾生が二三人お稽古に来たが、いつになく裏表の戸が閉《し》まっているのを見て、裏の家主《おおや》さんに知らせた。それで家主のお爺さんが勝手口の戸の隙間《すきま》から大きな声で呼んでみたが、どうしても起きない。そのうちに勝手口の方へ降りて来る階段の昇り口の処に白い足が二本ブラ下がっているのが薄明《ほのあか》るく見えたので、お爺さんは真青になって警察へ駆込んで来た。……それから警察の人が行って見ると、勝手口の突かい棒が落ちているのが一番先に解った。それから二階に上ろうとすると、母が寝巻一つのまま階段の上の手摺に細帯を結んで、それに首を引っかけて手足を垂らしているのが発見されたが、お前はそんな事は知らないような風に、床から半分脱け出して大の字になったままグーグー寝ていた。しかし母親の屍体を調べて見ると、首の周囲《まわり》の疵痕《きずあと》は細帯と一致しないし、寝床も取り乱してあるしするのだから、たしかに絞殺した後で首を縊《くく》ったように見せかけたものに違いない。又|家《うち》の中には何も盗まれたような跡が無いようだし、外から人が這入って来た様子もないから、お前より外《ほか》に怪しい者はいない事になる………。
 ――それからまだある。お前の母は寝床の中で絞殺《しめころ》されがけに随分苦しんでいるらしく、その絞めた疵痕が二重にも三重にもなっている位だから、横に寝ているお前が眼を醒さない筈はない。第一お前は平常《いつも》と違って三時間以上余計に朝寝をしていたのはどういう訳か。絞め殺しておいて胡魔化《ごまか》すつもりで寝ていたのが、つい寝過したのじゃないか。お前はほかに、お前を好いている女がいるのじゃないか。それとも塾生の中にお前が好いている娘がいて、その事に就《つ》いて母親と喧嘩したのじゃないか。母親にお金を強請《せび》ったのじゃないか。毎月|小遣《こづかい》を幾ら貰っているか。一体あれはお前の本当の母親なのかどうか。情婦を親に見せかけていたのじゃないか。スッカリ白状し給え……なんて飛んでもない事を色々と云いかけるのです。……ですけれども、僕はそんな事を聞いている中《うち》に、頭が痺《しび》れたようになりまして、それじゃ人間てものは自分でも知らない間に、人を殺すような事がホントウにあるのか知らん。僕は夢うつつのうちに母親を殺して忘れているのじゃないかしら……なぞとボンヤリ考えたりしながら、俯向《うつむ》いておりますと「そんならここで考えていろ」と留置場に入れられました。
 ――それからその日と、その晩の一夜は何も喰べずに眠ったり醒めたりして、あくる
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