はすぐに泣きそうな顔になりますので、大きくなってからは、あまり尋ねませんでした。
 ――けれども母が一所懸命で、父の行衛《ゆくえ》を探しているらしい事は、僕にもよく判りました。僕が四ツか五ツの時だったと思いますが、母と一緒に東京のどこかの大きな停車場から汽車に乗って長い事行くと、今度は馬車に乗って、田圃《たんぼ》の中や、山の間の広い道を、どこまでもどこまでも行った事がありました。一度眠ってから眼を醒ましたら、まだ馬車に乗っていた事を記憶《おぼ》えています。そうして夕方、真暗《まっくら》になってから或町の宿屋へ着きました。それから母は僕を背負って、毎日毎日方々の家《うち》を訪ねていたようですが、どっちを向いても山ばかりだったので、毎日毎日帰ろう帰ろうと言って泣いては叱られていたようです。それから又、馬車と汽車に乗って東京へ帰りましてから、山の中で馬車屋が吹いていたのと、おんなじ音《ね》のする喇叭《らっぱ》を買ってもらった事を記憶しています。
 ――それから、ずっと後《のち》になって、これは母が、父の故郷に尋ねて行ったものに違いないと気が付きましたから「あの時汽車に乗った停車場《ステーション》はどこだったの」と尋ねましたら母は又、涙を流しまして「そんな事を聞いたって何にもならない。お母さんは、あの時までに三度も、あそこへ行ったんだけど、今ではスッカリ諦めているから、お前も諦めておしまい。お前が大学を出る時まで、お母さんが無事に生きていたら、お前のお父さんの事を、みんな話してあげる」と云いましたから、それっきり尋ねませんでした。もうその時に見た山の形や町の様子なぞもボンヤリしてしまって、只、ガタ馬車の喇叭の音《ね》が耳に残っている切りです。しかし、それから後《のち》、いろんな地図を買って来まして、あの時に乗った汽車や、馬車の走った時間の長さを計ったりして調べて見ますと、どうしても千葉県か、栃木県の山の中に違いないと思うんです。エエ。線路の近くに海は見えなかったようです。けども汽車の窓の反対側ばかり見ていたかも知れませんから、ホントの事はわかりません。
 ――東京で住んでいた処ですか。それは方々に居りましたようです。僕が記憶《おぼ》えているだけでも駒沢や、金杉や、小梅、三本木という順に引越して行きまして、一番おしまいに居た麻布の笄町《こうがいちょう》からこっちへ来たのです。いつでも二階だの、土蔵《くら》の中だの、離座敷《はなれ》みたような処だのを二人で間借りをして、そこで母はいろんな刺繍をした細工物を作るのでしたが、それが幾つか出来上りますと、僕を背負《おぶ》って、日本橋伝馬町の近江屋《おうみや》という家《うち》に持って行きました。そうするとその家の綺麗にお化粧をしたお神《かみ》さんが、キット僕にお菓子を呉《く》れました。今でもその家と、お神さんの顔をおぼえております。
 ――母がその時に作っていた細工物の種類ですか? サアそれはハッキリおぼえませんけども、神様の垂れ幕だの、半襟だの、袱紗《ふくさ》だの、着物の裾模様だの、羽織の縫紋《ぬいもん》だのいろんなものがあったように思います。それをどんなにして縫っていましたか……どれ位のお金で売れていたか、その時はまだチッチャかったものですから、一つもわかりませんでしたけれども……たった一つ、今でもハッキリ記憶《おぼ》えておりますのは、東京から直方《こちら》へ来る時に、母が近江屋のお神さんに遣りました小さな袱紗の模様です。それは薄い薄い、向うが透かして見えるような絹一面に、いろんな色と形の菊の花を刺繍した、とてもとても綺麗なもので、毎日指の頭ぐらい宛《ずつ》しか出来ませんでしたが、それが出来上ったのを持って行って僕の手からお神さんに遣りますと、お神さんはビックリして、大きな声で家中《うちじゅう》の人を呼びましたが、みんな眼を丸くして感心しながら見ておりました。あとから聞きましたら、それは真物《ほんもの》の「縫い潰《つぶ》し」といって、今の人が誰も作り方を知らない昔の刺繍だったのだそうです。それからそのお神さんの御主人が母にお金を呉《く》れたようでしたが、お辞儀をして返して、お菓子だけ貰って帰りました。母とお神さんがいつまでも門口に立って泣いているので、僕は困ってしまいました。
 ――東京から直方《こちら》へ来たわけは、母が卜筮《うらない》を立てたんだそうです。「狸穴《まみあな》の先生はよく適中《あた》る」って云っていましたから大方、その先生が云ったのでしょう。「お前達親子は東京に居るといつまでも不運だ。きっと何かに呪われているのだから、その厄《やく》を落すためには故郷へ帰ったがいい。今年の旅立ちは西の方がいいとこの通り易のオモテに出ている。お前は三碧木星《さんぺきもくせい》で、菅原道真や市川左団次なぞと同じ星廻《ほしまわ》りだから、三十四から四十までの間が一番災難の多い大切な時だ。尋ね人は七赤金星《しちせききんせい》で、三碧木星とは相剋だから早く諦めないと大変な事になる。双方の所持品《もちもの》同志でも近くに置くとお互いに傷つけ合おうとする位で、相剋の中でも一番恐ろしい相剋なのだから、忘れても相手の遺品《かたみ》なぞを傍近くに置いてはいけない。そうして四十を越せば平運になって、四十五を越せば人並はずれたいい運が開けて来る」と云ったんだそうです。それで僕が八ツの年に、こっちへ来たのだそうですが、「ホントにその通りだ。私は天神様や何かとおんなじ星廻りだから、文学や芸術事が好きなのだろう」って母は何遍も塾生に話して笑っていましたので、僕はそんな云い草をスッカリ空《そら》でおぼえてしまったのです。……でも七赤金星の話は僕ばかりにしかしなかったそうで、誰にも話してはいけないと口止めされていたのですけども……。
 ――母は直方《こちら》へ来ると間もなく、この家《うち》を借りて塾を開きました。生徒はいつも二十人位なのを、夜と昼の二組にわけて下の表の八畳で教えていましたが、大変にいい処のお嬢さん方が見えると云って母は喜んでいました。けれども母は気が短かいので、よく生徒を叱りました。又よく無頼漢《ならずもの》や不良少年見たような者が生徒をからかいに来たり、母を脅迫《おどか》してお金を強請《ゆす》ったりしましたが、そんな時も母は一人で叱り付けて追い払いました。……ですから、この家《うち》の中に這入って来た男の人は家主のお爺さんと、中学時代の僕の受持の鴨打《かまち》先生と、電燈工夫ぐらいしかありません。そのほかには、母へ手紙が来た事もなければ、こっちから出した模様もありません。あんなに懇意だった近江屋のお神さんにも便りをしなかったようで、何でもかんでも自分の居所を人に知られるのを怖がっていたようです。その理由《わけ》は何故だか、僕にも話しませんでしたけれども、大方狸穴の占者《せんせい》の云った事を本当にし過ぎて、誰かが自分を狙っているように思ったのじゃないかと思います。母は迷信家ではありませんでしたが、狸穴の先生だけは真剣に信じていたようですから……。
 ――けれども僕は本当の事を云いますと、この直方《のうがた》を好きませんでした。それは東京からこっちへ来ます途中で、身体《からだ》の具合がわるかったせいか、汽車にヒドク酔いまして、あの石炭の煙のにおいが大嫌いになってしまいましたのに、こっちへ来ますと、そこら中が炭坑だらけで、朝から晩までそんな臭いばかりするからだろうと思います。けれども、母が折角いい処だと云って喜んでおりましたから、仕方なしに我慢しておりました。そうするとそのうちに慣れてしまって、汽車にも酔わなくなりましたけれども、空気の悪いのと、石炭の臭いだけはシンから嫌でした。それから学校に這入りますと、生徒の言葉が色々になっていて乱暴でわからないので困りました。日本中から集まった人の子供がいるんですから……。
 ――それに又、僕は小さい時から方々を引越していたせいか、友達が些《すくな》いのです。こっちへ来ましても学校友達はあまり出来ませんでしたが、その中《うち》に中学の四年になりますと、すぐに一所懸命の思いをして、福岡の六本松の高等学校へ這入りましたら、空気がトテモ綺麗で見晴しが素敵なので嬉しくて嬉しくて堪《たま》りませんでした……エエ……そんなに早く試験を受けましたのは直方《のうがた》が嫌いだったからでもありますけど、ホントの事を云いますと、早く大学が卒業したかったんです。そうして母と約束していた父の話を出来るだけ早く聞いてみたいような気持がして仕様がなかったのです……母にはそんな事は云いませんでしたけれども……中学へ入る時もそうだったのです。何故っていうわけはありませんでしたけども……そうしてやっと文科の二年になったばかしのところです(赤面、暗涙)。
 ――ですけど不思議なことに、母は試験が出来ても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からそうでしたけど、母は僕が勉強をして成績がよくなるのは何とも云いませんでしたが、成績が貼出されたり、僕の名前が新聞や雑誌に載ったりするのは心《しん》から嫌《きらい》だったらしいのです。僕もそんな事は好きませんでしたので、学校の規則で成績品を出さなければならない時には、母がわざわざ僕を連れて「なるたけ隅っこの人眼につかない処へ出して下さい」と先生の処へ頼みに行った事もある位です。先生の方では「なかなか奥床《おくゆか》しい方だ」なぞ云って母を賞めていましたけれども、母の方は奥床しいどころでなく真剣に嫌がっていたようでした。高等学校へ這入る時も、僕の名前が福岡の新聞に出るのを無暗《むやみ》に心配しているようでしたので「そんなら東北かどこか遠方のつまらない私立の専門学校か何かを受ける事にして、そこへ僕と一緒に、引越したらどうです。そうすれば福岡の新聞には出ないかも知れませんよ」と云いましたら、暫く考えてから「お前はどうしても大学へ入れなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しいから」と云って、とうとう福岡を受ける事に決めました。けども、それでも「福岡には不良少年や不良少女がタントいるから、無暗に寄宿舎から出てはいけない」とか「途中で知らない人から話かけられても無暗に口を利いてはいけない」なぞと云って聞かせておりましたが、今から考えますと、やはりあの狸穴《まみあな》の先生が云った事は適中《あた》っていたので、母は何か人に、つけ狙われるような憶えがありましたために、自分達の居所をできるだけ隠そうとして、いろいろと気を揉《も》んでいたのだろうと思います。
 ――学校に居る間は寄宿舎に這入っていましたが、土曜の晩から日曜へかけてはキット直方へ帰って来ました。休暇の間もずっと家《うち》に居て毎朝すこし早く起きて母の手伝《てつだい》をしたり何かしましたが、その代り夜は九時か十時頃に寝るのでした。母はずいぶん気の強い女で、人気《にんき》の悪い直方に住んでいながら、僕の居ない時はたった一人でこの室《へや》に寝るのでしたが「朝は八時半頃からボツボツ生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間もないから、ちっとも淋しいとは思わない。勉強の忙《せわ》しい時なぞは無理に帰って来なくてもいいよ」なぞとよく云っておりました。
 ――ついこの頃になっても別にかわった事はありませんでした。ただ、去年の夏でしたか、母が刺繍材料の包み紙になって来た亜米利加《アメリカ》の新聞を持って来て「これは何という人か」と尋ねますので、そこの処の記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した道化役《ピエロ》だとわかりましたので、母はつまらなさそうに「フン。そうかい」と云って降りて行きました。その時に僕の父は、あんな顔をした人間で外国に居るのだなと思いましたから、その写真は細かい処までよく記憶《おぼ》えています。チョット見ると大きなお蚕様《かいこさま》みたような顔でしたから、私はソッと下へ降りて、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いて見ましたが、ちっとも似ていませんでし
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