した。
その呼吸が又も次第次第に高く喘ぎ初めました。その頬に一種異様の赤味がホノボノとさし初めました。空中の或者と物語っているかのように眼を細くして、腹の底から低い気味の悪い音を立てつつ切れ切れに、
「……アハ……アハ……アハアハ……」
と笑っておりましたが、やがてその唇を凝《じっ》と噛んで、美少女の寝顔を見下しますと、ワナワナと震える指をさし上げて、頭の上の電燈のスイッチを一ツ……二ツ……三ツ……と切って、最後に四ツ目をパッと消してしまいました。
しかし室内はモトの闇黒《あんこく》には帰りませんでした。閉じられた窓の鎧扉《ブラインド》の僅かの隙間《すきま》から暁の色が白々と流れ込んで、室《へや》の中のすべての物を、海底のように青々と透きとおらせております。
……茫然と、その光りを見つめておりました彼は、やがてその両手の指をわななかせつつ、ピッタリと顔に押当てました。ヨロヨロと背後《うしろ》によろめいて壁に行き当りました。そのままズルズルと床の上に座り込みますと、失神したように両手を床の上に落して、両脚を投出して、グッタリと項垂《うなだ》れてしまいました。
その時に解剖台上の少女の唇が、微かにムズムズと動き出しました。ほのかな……夢のような声を洩らしました。
「……お兄さま……どこに……」……【溶暗[#「溶暗」は太字]】……
【字幕[#「字幕」は太字]】 正木若林両博士の会見。
【説明[#「説明」は太字]】 次に映写し出されましたるは、九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室に於ける正木博士の居睡《いねむ》り姿で御座います。時は大正十五年の五月二日……すなわち前回の映画にあらわしました若林博士の屍体スリ換えの場面が、正木博士の天然色浮出発声映画カメラ[#「天然色浮出発声映画カメラ」に傍点]のフィルムに収められましてから丁度一週間目の、お天気のいい午後の事で御座います。教授室の三方の窓には強い日光を受けた松の緑が眩《まぶ》しく波打っておりまして、早くも暑苦しい松蝉《まつぜみ》の声さえ聞えて来るのでありますが、南側に並んだ窓の一つ一つには、胡粉絵《ごふんえ》の色をした五月晴《さつきば》れの空が横たわって、その下を吹く明るい風が、目下工事中の解放治療場の作業の音を、次から次に吹込んで参ります。
正面の大|卓子《テーブル》と、大暖炉との中間に在る、巨大《おおき》な肘掛回転椅子に乗っかった正木博士は、白い診察服の右手の指に葉巻の消えたのを挟み、左には当日の新聞紙を掴みながら鼻眼鏡をかけたままコクリコクリと居睡りをしております。トント外国の漫画に出てまいります屁《へ》っぽこドクトルそのままで……読みさしの新聞の裏面に「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、初号三段抜きで掲げてありますところを特に大うつしにして御覧に入れておきます。そのうちに大暖炉の上の電気時計の針が、カチリと音を立てて三時三分を指しますと、大学のお仕着せを着た四十恰好の頭を分けた小使が、一葉の名刺を持って這入って来て、恭《うやうや》しく正木博士の前に捧げました。
扉の閉《しま》った音で眼を醒ました正木博士は、その名刺を受取ってチョット見ますと如何にも不機嫌らしく両眼を凹《へこ》ませました。
「ナアーンだ。何遍云って聞かせてもわからない唐変木《とうへんぼく》だ。馬鹿叮嚀にも程がある。これから、こんなものを一々持って来なくとも、黙って勝手に這入って来いと、そう云え」
と云いながら、その名刺を大卓子の上に投げ出しました。ナカナカ威張ったもので……そのまま眼を閉じて、又もウトウトと睡りこけております。
ところへ、青いメリンスの風呂敷を一個、大切そうに抱えた若林博士が、長大なフロック姿を音もなく運んで這入って来まして、正木博士と向い合った小さな回転椅子に腰をかけました。矮小な正木博士が、大きな椅子の中一パイにハダカッているのに対して、巨大《おおき》な若林博士が、小さな椅子の中に恭しく畏《かしこま》っている光景は、いよいよ絶好の漫画材料で御座います。……と、やがて若林博士は例によって持病の咳に引っかかりまして、白いハンカチを口に当てたまま、ゴホンゴホンと苦しみ始めました。
正木博士はその騒ぎでやっと眼を醒ましたものと見えまして、新聞と葉巻を空中にヤーッとさし上げて、眼の前の若林博士は勿論のこと、この室も、九州大学も、しまいには自分自身までも一呑みにしてしまいそうな、素敵もない大|欠伸《あくび》を一つしました。
斯《か》くして事件勃発以後に於ける二人の博士の最初の会見は、この大欠伸によって皮切られたのでありますが、続いて始まる二人の会話が、表面から見ますと何等の隔意もないように思われまするにも拘らず、その裏面には何かしら互いに痛烈な皮肉を含ませて、出来るだけ深刻に相手を脅威すべく火花を散らしている……らしい事にお気が付かれましたならば、この事件の裡面に横たわっている暗流が如何に大きく、且つ、深いものがあるかを御推察になるのに充分であろうと信じまする次第で……。
「アーッ……アーッと。イヤア。とうとうやって来たね。ハハハハハハ多分もうやって来る時分だと思っていたが」
「ハア……ではもう、事件の内容は御存じなので……」
「知っているぐらいじゃない……これだろう……花嫁殺し迷宮に入る[#「花嫁殺し迷宮に入る」に傍点]……という……無論記事の内容にはヨタが多いだろうが……」
「さようで……併《しか》し私がこの事件に関係致しておりますことは、どうして御存じで……」
「……ナアニ……この間|一寸《ちょっと》用事があって君に電話をかけたら、午後の講義をブッ潰して、自動車でどこかへフッ飛んで行ったというから、扨《さて》は何か初まったナ……と思っていると、その日の夕刊に……結婚式の前夜に花嫁を絞殺す[#「結婚式の前夜に花嫁を絞殺す」に傍点]……とか何とかいう特号四段抜きか何かの記事が出たから、扨《さて》はこの事件に引っかかったナ……と察していた訳なんだがね」
「ナルホド。しかし今日私がこちらに伺いますことは、どうして御存じで……」
「ウン……それあ今日かいつか知らないがキッと来るには間違いないと思っていた。……というのはこの事件は……ホラ……例の心理遺伝[#「心理遺伝」に傍点]に違いないと最初から睨んでいたからね。君が調べ上げて吾輩の処へ持込んで来るのを実は待っていた訳だ。ハハハハハ」
「恐れ入ります。お察しの通りで……実は私は二年前からこの事件に関係致しておりましたので……」
「エッ。二年以前から……」
「さようで……」
「……フ――ン。二年前にも、こんな事件があったんかい」
「ハイ、それも同じ少年が、実母を絞殺致しました事件で……」
「ウーム。おんなじ奴が、おんなじ手段で……しかも実母を……ウーム……」
「実はその時に、こちらから進んで事件に関係致しました私は……この事件の犯人は別にいる。この少年が殺したのではない……と主張致しておったので御座いますが、その犯人がその後どうしても見つかりませぬ」
「君の炯眼《けいがん》を以てしてかい」
「……お恥かしい次第ですが、このような難解な事件に接しました事は、私も生れて初めてで……何と説明致したら宜しう御座いましょうか……犯跡が歴然と致しておりながら、犯人が居た形跡がないとでも……」
「……フ――ン。面白いナ……」
「……で御座いますから、その少年が前回の実母絞殺事件で無罪と相成りました後《のち》も私は決して安心致しませんで、何とかして犯人の目星《めぼし》をつけたいと考えました結果、被害者の実の姉で、少年の伯母《おば》に当る八代子《やよこ》という者や、警察方面とも連絡を取りまして、もしこの後《のち》に、この少年の起居動作、又は一身上の出来事なぞにすこしでも変った事があったら、直《すぐ》に知らせてくれるように頼んだりなぞ致して、絶えず注意を払っていたので御座いますが、とかくする中《うち》に二年後の今日と相成りますと、果して又も同じ少年が、今度は自分の伯母に当る八代子の娘でしかも自分の花嫁となるべき呉モヨ子という少女をその結婚式の前夜に絞殺致しましたので、二年前の実母殺しも、やはりこの少年が、同じような精神病的発作に駆られてやったものに違いない……というような事になりました。お蔭で二年前に……この少年の母を殺した犯人は別にいる……と申しました私の言葉は、目下のところスッカリ信用を失っておりますような訳で……」
「アハハハハハ痛快痛快……。そう来なくっちゃ面白くない。君の腕試しには持って来いの事件らしいね」
「イヤどうも……腕試しどころでは御座いませんので……。実は私もこの事件を、兼《か》ねてから御指導によって研究致しております精神科学的犯罪[#「精神科学的犯罪」に傍点]の好研究材料と信じまして、一ツの事を三ツも四ツもの各方面から調査致しまして、スッカリ書類にしておいたので御座いますが……この風呂敷包みの中のがそれで……」
「……ウワッ……オッソロシイ大部なモンじゃないかそれあ……事件が始まってから、まだ一週間しか経たないのによく、それだけの書類が……」
「イヤ、この中には、二年前の事件に関する調査書類も一緒になっておりますので……又今度の事件の分も、いつ何時《なんどき》私が重態に陥りましても差支えないように、調べる片端《かたっぱし》から不眠不休でノートに致して参りましたのですが……おかげで持病の喘息《ぜんそく》が急に悪化しまして、幾何《いくばく》もない私の余命が、一層たよりなくなったような気が致します」
「ウ――ム。そういえば近来急に影が薄くなったようだ。気をつけなくちゃいけないぜ。木乃伊《ミイラ》取が木乃伊式に、自分自身が精神科学の幽霊になったんじゃ鳧《けり》のつけようがないからね。アハハハハ、イヤ御苦労御苦労……ところで、その包の上にツン張り返っている四角い箱は何だいソレア……」
「ハイ。これが今回の心理遺伝事件の暗示に使われました一巻の絵巻物で、箱は私が指物屋《さしものや》に命じて作らせたもので御座います。……その呉一郎と申す青年は、誰かにこの絵巻物を見せられた結果、精神異常を来《きた》したものに相違ないと考えられるので御座いますが、今も申します通り、当局者と私の見込が全く違ってしまいまして、呉一郎の精神異状は自然的の発病か、もしくは精神病者を装っているものと認められておりますために、この絵巻物を当局者に参考材料として見せましても、頭から一笑に附しているので御座います。併し又、一方から申しますと、そのお蔭で、斯様《かよう》な貴重な参考材料が、都合よくこちらの手に這入りましたような訳で……」
「アハハハハ。そいつはよかったね。君がその風采で、警察や裁判所の奴等の前にそんな巻物を持出して、ソモソモこれが恐れ多くも勿体《もったい》なくも正木博士独特の御研究にかかる前代未聞の新学理、心理遺伝の暗示材料で御座る……なぞ云い出したら、大抵|面喰《めんくら》ってしまったろう。よく香具師《やし》と間違えられなかったね、アハハハハハハ」
「ハハハハハ。イヤ実は例の隠蔽[#「隠蔽」に傍点]になりませぬように形式だけ見せたので御座いますが、実はこちらの物にしたくてたまりませんでしたので……」
「如何にも……そこに抜かりはない男だからね……」
「イヤ……どうも……」
「……ところで今日の用事というのは、その書類と事件とを吾輩に押しつけに来たんかい」
「ハイ。それも御座いますが今一つ……現在、花嫁殺しの犯人と目されて、福岡|土手町《どてまち》の未決監に入れられております少年呉一郎の精神鑑定がお願い致したいので……」
「ウン。あの少年かい。あの少年の精神状態なら新聞記事だけで大抵様子は判っているよ。所謂《いわゆる》発作後の健忘状態という奴だ。つまりその絵巻物の暗示か何かで精神異状を来した結果、或る夢中遊行を起して、花嫁を殺したりしている奴を、無理矢理に取押えて夢中遊行を中絶させようとしたために大暴れに暴れ出した。そうして、そんな興奮から来た神
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