たような蚯蚓腫《みみずば》れや、蜥蜴《とかげ》のような血斑が、見ているうちに頸のまわりを取巻いてしまいました。
しかし黒怪人物の黒怪事業はまだまだ進行する模様で御座います。
黒怪人物は、それから大急ぎで二重の手袋を穿《は》め直しまして机の下から一包みの繃帯を取出しました。その繃帯でもって化粧済みの屍体の顔から頭へかけて真白に巻き潰してしまいましたが、続いて頸、肩、上膊部、胸、腹部、両脚という順序に、全身をグルグルグルグルグルと巻上げますと、御覧の通り木乃伊《ミイラ》の出来|損《そこ》ねか又は、子供の作るテルテル坊主の裸体《はだか》ん坊《ぼう》を見るような姿にしてしまいました。それから今度は、寝棺の蓋の上に寝ている美少女の派手な下着を剥ぎ取って、白坊主に着せまして、その上から緋鹿子絞《ひがのこしぼ》りの扱帯《しごき》をキリキリと巻付けてやりましたが、その姿の奇妙さ、滑稽さ……そうして、それと向い合って見下している黒怪人物の、今更に眼に立つ物々しい妖異さ……。
しかしまだテルテル坊主の屍体には、節《ふし》の高いカサカサに荒れた両手が、ニューと突出されたまま残っております。これをどうして胡麻化《ごまか》すかと見ておりますと、流石《さすが》は絶代の怪人物黒衣博士です。何の造作もないこと……その両腕の肘の関節をポキンポキンと押曲げてチャンと合掌させて、白木綿でシッカリと縛り包んでしまいました。成る程。これなら大丈夫と思ううちに、これも同じく隠しようのないままに残されていた皸《ひび》だらけの足の踵《かかと》も、美少女の小さな足袋《たび》の中に無理やりに押込んでヒシヒシとコハゼをかけてしまいました。そうして愈々《いよいよ》強直してしまった、艶《なま》めかしい姿の白坊主をヤットコサと抱き上げて、寝棺の中にソッと落し込んで、三枚|襲《がさ》ねの振袖と裲襠《うちかけ》を逆さに着せて、糸錦《いとにしき》の帯で巻立ててやりますと、今度は多量のスポンジと湯と、水と、石鹸と、アルコールとで解剖台面を残る隈《くま》なく洗い浄《きよ》めました。その上に意識を恢復しかけている美少女の裸身をソロッと抱え上げまして、その下敷になっていた分厚い棺の蓋を、テルテル坊主の上からシックリと当てがって、その上を白絹の蔽いでスッポリと蔽い包んでしまいました。
しかし黒怪人物の怪事業は、まだ残っておりました。しかも今度こそは、その黒怪手腕中の黒怪手腕を現わすホントの怪事業とでも申しましょうか。
ここで寝棺と解剖台との間に突立って、又もホッとばかり肩を戦《おのの》かして一息しました黒衣の巨人はやがて又大急ぎで手袋を脱ぎ棄てますと、まず鋏を取上げて、解剖台上の少女の長やかに房々とした頭髪を掻分《かきわ》けながら、まん中あたりの髪毛《かみのけ》を一抓《ひとつま》み程プッツリと切取りました。それを机の抽斗《ひきだし》から取出した半紙でクルクルと包みまして、同じ抽出《ひきだし》から出した屍体検案書の刷物《すりもの》や二三の文房具と一緒に先刻の屍体台帳の横に置並べましたが、やがて鉄製の円型腰掛を引寄せながら、新しい筆を取上げて墨汁を含ませますと、今の半紙の包みの上に恭《うやうや》しく「遺髪」「呉モヨ子殿」と書きました。それから、ちょっと時計を出して見ながらジッと考えている様子でしたが、屍体検案書の書込みの方は後廻しにする決心をしたらしくソッと横の方へ押遣《おしや》って、屍体台帳の方を繰拡げますと、その中央に近い処にある「四百十四号……七」と書いた一枚をほかの書込みの行列と一緒に叮嚀に破って、抜取ってしまいました。
それから別の皿へ墨汁を溶かして、色々の墨色を作りながら、破った頁《ページ》文字とソックリの筆跡で十数個の屍体に関する名前、年月日、番号等を書入れて参りました……が……その中でも今の「四百十四号……七」に関する書込みは全部飛ばして、次の「四百二十三号……四」の分を記入して、一々「若林」という認印《みとめいん》を捺《お》してしまいました。……すなわち、今しがた寝棺の中に納められたばかりの少女の変装屍体に関する記入は、かくしてこの屍体台帳から完全に追出されてしまった訳で御座います。
……諸君はここに於てか、今迄の若林博士の苦心惨憺の怪所業の一々が、何を意味しておったか……という事を、悉《ことごと》く明白に理解されたで御座いましょう。
美少女、呉モヨ子の身代りとなって、棺の中に納められておりますのは、もともと身よりたよりの無い、行衛《ゆくえ》も知らぬ少女の虐殺屍体で、こちらから通知を出さない限り、遺骨を受取りに来る気づかいのない種類のものである事が、容易に察せられるのであります。
一方に当大学内に於て、屍体解剖を行われました人間の身寄《みより》の者は、大抵、その翌日のうちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのでありますが、実は、解剖が済みますと直ぐに、裏手の松原に在る当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何も無いままに荼毘《だび》に附して、灰のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りに来た者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりますので、屍体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないといってよろしい。尤《もっと》も、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要求するような、取乱した親達がないという断言は出来ないのでありますが、仮令《たとい》そのような場合があるにしても、彼《か》のメチャメチャに縫い潰した顔を見せたら、二《ふ》タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。
但、唯一つここに懸念されるのは、その筋の係官や、関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これ程に二重三重の念を入れて、巧妙、精緻な手を入れた換玉《かえだま》である事を、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましてもその人格に於て、又はその名声に於て、天下に嘖々《さくさく》たる若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎる位に念を入れて仕上げた仕事ですから誰が疑点を挿《はさ》み得ましょう。どこに手ぬかりがありましょう……九大、屍体冷蔵室の屍体紛失事件が、若林博士以外にはタッタ一人しか居ない係りの医員に、不審の頭を傾けさしたまま、永久の闇から闇に葬られて行く時分には、行衛不明になった少女の虐殺屍体は既に、一片の白骨となって、立派な墓の下に葬られて、香華《こうげ》を手向《たむ》けられている訳であります。
同時に現在、気息を恢復しつつある解剖台上の少女……呉モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹殺された、生きた亡者となって、あの蒼白長大な若林博士の手中に握り込まれつつ、呼吸する事になるので御座いますが、しかし、それが後《のち》になって何の役に立つのか、若林博士は何の目的でこの少女を、生きた亡者にして終《しま》ったのか。……その説明は後《のち》のお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました正木博士にもサッパリ見当が附《つい》ておりませんでしたので……恐らく諸君とても御同様であろうと思います……が……。
……しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称讃されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、若林鏡太郎博士が、かほどの惨憺たる苦心と、超常識的なトリックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、如何に怪奇と不可解を極めた、凄絶なものであろうか……という事実に就いては最早《もはや》、十分十二分の御期待が出来ている事と存じます。しかも、この御期待に背《そむ》かない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、順序を逐《お》うて諸君の眼前に展開して参りますのは、最早、程もない事と思われますので……。
すなわち御覧の通り、事件は最早、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、若林博士の手に落ちているので御座います。そうして同博士は今や、一代の智脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を捲起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。
却説《さて》……斯様にして屍体台帳の書換えを終りました若林博士は、その台帳を無記入《ブランク》の屍体検案書と一緒に、無雑作に机の上に投出しました。疲れ切った身体《からだ》を起して室内に散らばっているガーゼ、スポンジ、脱脂綿なぞを一つ残らず拾い集めて、文房具、化粧品等と一緒に新しい晒布《さらし》に包み込んで、繃帯で厳重に括《くく》り上げてしまいました。多分、どこかへ人知れず投棄して、出来る限り今夜の仕事を秘密にする計劃で御座いましょう。四一四号の屍体の各局部の標本を取らなかったのも、そうした考えからではなかったかと考えられます。
こうした仕事を終りまして今一度そこいらを念入りに見廻しました若林博士は、やがて傍《かたわら》の机の上に置いた新しい看護婦服と白木綿の着物を取上げて、まだ麻酔から醒ずにいる少女に着せるべく、解剖台に近づきました……が……若林博士は思わず立止まりました。手に持っている物を取落して背後《うしろ》によろめきそうになりました。
今更に眼を瞠《みは》らせる少女の全身の美しさ……否、最前の仮死体でいた時とは全然《まるで》違った清らかな生命《いのち》の光りが、その一呼吸|毎《ごと》に全身に輝き満ちて来るかと思われるくらい……その頬は……唇は……かぐわしい花弁《はなびら》の如く……又は甘やかなジェリーのように、あたたかい血の色に蘇《よみがえ》っております。中にもその愛《め》ずらかな恰好の乳房は、神秘の国に生れた大きな貝の剥《む》き肉《み》かなぞのように活《い》き活きとした薔薇色に盛り上って、煌々《こうこう》たる光明の下に、夢うつつの心を仄《ほの》めかしております。
……冷たい……物々しい、九大法医学部屍体解剖室の大理石盤の上に、又と再び見出されないであろう絶世の美少女の麻酔姿……地上の何者をも平伏《ひれふ》さしてしまうであろう、その清らかな胸に波打つふくよかな呼吸……。
その呼吸の香《か》に酔わされたかのように若林博士はヒョロヒョロと立直りました。そうして少女の呼吸に共鳴するような弱々しい喘《あえ》ぎを、黒い肩の上で波打たせ初めたと思うと、上半身をソロソロと前に傾けつつ、力無くわななく指先で、その顔の黒い蔽《おお》いを額の上にマクリ上げました。
……おお……その表情の物凄さ……。
白熱光下に現われたその長大な顔面は、解剖台上の少女とは正反対に、死人のように疲れ弛《ゆる》んだまま青白い汗に濡れクタレております。その眼には極度の衰弱と、極度の興奮とが、熱病患者のソレの如く血走り輝やいております。その唇には普通人に見る事の出来ない緋色《ひいろ》が、病的に干乾《ひから》び付いております。そうした表情が黒い髪毛《かみのけ》を額に粘り付かせたまま、コメカミをヒクヒクと波打たせつつ、黒装束の中から見下している……。
彼はこうして暫くの間、動きませんでした。何を考えているのか……何をしようとしているのか解らないまま……。
……と見る中《うち》に突然に、彼の右の眼の下が、深い皺を刻んで痙攣《ひっつ》り始めました……と思う間もなく顔面全体に、その痙攣《けいれん》の波動がヒクヒクと拡大して行きました。泣いているのか、笑っているのか判然《わか》らないまま……洋紙のように蒼褪《あおざ》めた顔色の中で、左右の赤い眼が代る代る開いたり閉じたりし初めました。何事かを喜ぶように……緋色に乾いた唇が狼のようにガックリと開いて、白茶気た舌がその中からダラリと垂れました。何者かを嘲《あざ》けるように……それは平生の謹厳な、紳士的な若林博士を知っている者が、夢にだも想像し得ないであろう別人の顔……否……彼がタッタ一人で居る時に限って現われる悪魔の形相……。
けれどもその中《うち》に彼はソロソロと顔を上げて参りました。いつの間にか乾いている額の乱髪を、両手で押上げつつ、青白い瞳をあげて、頭の上に輝く四個の電球を睨み詰ま
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