かたはし》から、取除いて行きましたが……御覧なさい……その蒼黒い少女の皮膚の背中から胸へ、胸から股へと、縦横にタタキ付けられている大小長短色々の疵痕《きずあと》を……殴打、烙傷《らくしょう》、擦傷《さっしょう》の痕跡を……それらの褐色、黒色、暗紫色の直線、曲線は腰部にあらわれている著明な死斑と共に、煌々《こうこう》たる白光下に照し出されると同時に、そのままの色と形の蛇や、蜥蜴《とかげ》や、蟇《がま》となって、今にも彼女の皮肌の上を匐《は》いまわり初めるかと疑われるくらい……。
御承知の御方も御座いましょうが、全国の各大学や、専門学校の研究用の解剖屍体には、こうした種類の屍体がよく持込まれるので御座います。殊に、この九大に収容されるのは、同地方に多い炭鉱や紡績、その他の工場、又は魔窟なぞへ誘拐虐待されたもの、又は自殺者、行路病者なぞの各種類に亘っておりまして、中には引取人のないのも珍しくありませぬが、九大側では、そんなのを片《かた》っ端《ぱし》から研究材料にして切り散らしたあげく、大学附属の火葬場で焼いて骨《こつ》にして、五円の香典を添えて遺族に引渡す。又、引取人のないものは共同墓地へ埋めて、年に一度の供養法会《くようほうえ》を執行《とりおこな》う事になっておりますので、この屍体も、そうした種類の一つと考えられるのであります。
こう申しますうちに、屍体の全身を手早く検査し終りました若林博士は、今一度ホーッとばかり、喘《あえ》ぐように溜息しつつ、覆面ごしに顔の汗を押えておりましたが、やがて部屋の隅の洗面器の処に近付いて、水道栓から直接にゴクゴクと水を飲んでは噎《む》せかえり、呼吸を落付けては水を飲んで、暫くの間は息も絶え絶えに咳入《せきい》っております。永年の肺病に囚《とら》われて、衰弱に衰弱を重ねております同博士にとりまして、これだけの労作《はたらき》は、如何ばかりか辛《つら》く、骨身にこたえた事でしょう。
けれども同博士の怪《かい》より出でて怪に入る仕事は、まだ半分も進行していないので御座います。
程もなく洗面器の処から引返しました若林博士は、まず屍体の足の処にボール鉢を置いて、そこに取付けてあります水道栓のホースを突込んで、屍体の脚部から背中へかけた解剖台面に水を放流し初めました。次いで今一つのボール鉢に湯を取りまして、スポンジと石鹸を使いながら、解剖台上の少女の虐殺屍体を、隅から隅まで叮嚀に洗い浄《きよ》めましたが、次いでその皮膚の全面を、ガーゼと脱脂綿とでスッカリ拭い乾かしますと、その貧しい赤茶色の髪の毛を真二つに引分けて、傍《かたわら》に光り並んでいるメスの一つを取上ると見る間に、屍体の眉間《みけん》の処をブスリと一突き……それから次第に後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリと截《き》り開いて行きました。
ところで多少共にこの方面に関する知識を持っていられる方は、定めしここで「オヤ」と思われる事と存じます。若林博士のこうしたやり方は、普通の場合に於ける屍体解剖の手順になっております胸部、腹部から頭部、次に背部という順序を無視して、頭部から初めている事になりますから……。
そもそも古今の名法医学者若林博士は、何の目的の下に、このような勝手気儘な順序を以てメスを揮《ふる》いはじめたのか……と疑う間もなく四一四号の少女の頭の皮は巧《たくみ》にクルリと裏返しにされまして、髪毛《かみのけ》と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました。次に、その下から現われました白い坊主頭を、鋸《のこぎり》で鉢巻形に引切りました若林博士は、その下から現われた脳髄を、器用な手附で鋏を使いながら硝子《ガラス》の皿の上に取出しますと、そこで同博士一流の念入りな調査をこころみるか、それとも標本にして取っておくのか……と思われましたが、これが又案に相違して、まるでビフテキかオムレツでも取扱うような無関心さで、皿の中の脳髄をクルリと宙返りさせますと、そのまま旧《もと》の空洞に納めまして、頭蓋骨を冠せて、皮と髪毛をクルリと蔽《おお》うて、針と糸を迅速に捌《さば》き働かせつつ、粗《あら》っぽく縫い合せてしまいました。
……これは意外である。一種の狼藉《ろうぜき》とも見るべき所業である。厳格方正を以て聞えた若林博士は、何故《なにゆえ》に今夜に限って、斯様《かよう》な不誠意を極めた屍体解剖を試みるのであろうか……と疑いの眼を瞠《みは》っているうちに、屍体は間もなく……ゴロリと俯向けに引っくり返されました……と見ると、疵《きず》だらけの背筋の中央、脊椎の左右の筋肉が円刃刀《メス》でもってゴリゴリと切り開かれました。そこから二股《ふたまた》の鋸を突込んで、左右の肋骨《ろっこつ》を切り除《の》けた若林博士は、取出した背骨を縦に真二つに切り開いただけで、ロクに検査もせずに、もとの処に当てがいまして、太い針でブスブスと縫い合せてしまいました。その一気呵成《いっきかせい》的なゾンザイサというものは、やはり前とおんなじ事なので……。
次に若林博士は今一度、屍体をあお向けにして、汚れた処をザッと洗い浄めてから、腹部の皮の厚さを押えこころみている……と思ううちに、新しいメスをキラリと取上げて、咽頭《いんとう》の処をブスリと一突き……乳の間から鳩尾《みぞおち》腹部へと截り進んで、臍《へそ》の処を左へ半廻転……恥骨《ちこつ》の処まで一息に截り下げて参りますと、まず胸の軟骨を離して胸骨を取除《とりの》け、両手を敏活に働らかせつつ、胸壁から下へ腹壁まで開いて参りましたが、只一刀で腹壁、腹膜が同時に、切開かれておりまして、内臓には一点の疵《きず》も附いていない。……五臓六腑の配置が歴々整然として、蒼白い光りに輝き濡れている光景は、気味悪いと申しましょうか、物凄いと形容致しましょうか……その肺臓の一面にあらわれている黒い汚染《しみ》は、この少女が炭坑労働に従事しておった事をあらわし、その致死の直接原因と見られる肝臓の破裂と内出血は、この少女に加えられた虐待、もしくは迫害が、如何に激烈であったかを証明しているのでありますが、しかし若林博士は相も変らず、そんな事には眼もくれませぬ。ただ、それ等の内臓の一つ一つを手当り次第に廻転さしたり、掻き乱したりしただけで、その最後に胃袋と、大小腸と、膀胱《ぼうこう》とを、ほんの形式だけ截り破るなぞ、あらゆる検査の真似型だけを終りますと、普通の解剖のように、各臓器の一部|宛《ずつ》を標本に取るような事もせずに、又も、太い針と麻糸を取り上げまして、下腹部から順次に咽頭部まで縫い上げて行きました……が……その間に於ける刀《メス》の揮《ふる》い方の思い切って残忍痛烈なこと……その針と、糸の使い方の驚くべき巧妙迅速を極めていること……そうしてその手付きや態度にあらわれて来る、たまらないほど辛辣な満足のわななき……それはこうした仕事によって、或る深刻痛烈な慾望を満足させつつある、精神異常者そのままの表現ではないかと疑われるくらい……。
先刻から、かような一挙一動を、詳しく見ておいでになりました諸君は、もはやハッキリとお気付きになっているで御座いましょう。今や若林博士の態度は、その平生の冷静、荘重な物腰を全然|喪《うしな》ってしまって、殆ど別人かと思われる残忍、酷烈な、且つ一種異様な興味に駆られた、元気溌溂たる人間に変って来ておりますことを……。
しかし、これは決して怪しむべき現象ではありませぬ。昔から或る仕事の大家とか、又は或る技術の名人とか天才とか呼ばれる人間が、自分の仕事に熱中して参りますと、その疲労から来る異常な興奮と、超自然的な神経の冴えが生み出す妄覚等によって、平生とはまるで違った心理状態になって、一見極めて非常識に見える事に深刻な興味を持ったり、又は変態怪奇を極めた所業《しわざ》を平気で演じて行く例《たとえ》は、随分沢山に伝わっておりますので……況《いわ》んや若林博士のような特殊な体質と頭脳を持った人間が、斯様《かよう》な古今に類のないであろう事業……闇黒の中に絶世の美少女の仮死体を蘇生させるという、玄怪微妙な仕事が済むと間もなく、今度は世にも珍らしく、酷《むご》たらしい少女の虐殺屍体を、無二無三に斬りさいなむという、異常を超越した異常な作業にかかっているのですから、その神経が、どんな程度にまで昂進して、その心理が如何なる方向に変形して来ているかは到底常人の想像し得るところではありますまい。
そうした不可解な心理を包んだ黒怪人物……若林博士は、かくして間もなく、少女の胸腹部を、咽頭の処まで縫合せ終りますと、最後に一際《ひときわ》鋭い小型のメスを取上げて、四一四号の少女の顔面に立向いました。
まず、右の眼の縁へズクリとメスを突立てますと、恰《あたか》も同博士独特の毒物の反応検査を試みるかのように、両眼をグルリグルリと抉《えぐ》り出してしまいましたが、例によって、別に眼底を検《あらた》めるでもなく、そのまま直ぐに元の眼窩《がんか》に押込んでしまいました。次には、その中間の鼻梁《びりょう》を、奥の方の粘膜が見える処までガリガリと截《た》ち割りました。それから唇の両端を耳の近くまで切り裂いて、咽頭が露われるまでガックリと下顎を引卸しました。
屍体の顔はかようにしてトテモ人間とは思われぬまでに変形してしまいましたが、これを又モトの通りに一個所|毎《ごと》に縫い合せました黒衣の巨人は、ホッと一息する間もなく、ガーゼと海綿を取上げてアルコールをタップリと含ませながら、汚れた処を一々叮嚀に拭上げますと、やがて今までとはまるで相好の変った、誰が誰やらわからぬ奇妙な恰好の屍体が一個出来上ってしまいました。
黒衣の博士はここでヤット一息入れますと、解剖台の上と下とに横たわる二人の少女の肉体を繰返し繰返し見較べておりましたが、そのうちに、二重の手袋を左右とも脱ぎ棄てまして、傍《かたわら》の机の上に在る固練白粉《かたねりおしろい》を掌《てのひら》で溶きながら、一滴も澪《こぼ》さないように注意しいしい、四一四号の少女の顔、両肩、両腕と、腰から下の全部にお化粧を施し初めました。
……ところでその手附を御覧下さい。いかがです。粗《あら》い縫目や、又は毛髪の生際《はえぎわ》なぞに白粉が停滞しないように注意しつつ、デリケートに指を働らかせて行くところは、如何にも斯様な化粧品を扱い慣れている手附では御座いませんか。
これは恐らくこの博士が、自身に何回となく変相をした経験があるせいでは御座いますまいか。それともこの博士の裏面的性格から来た、飽く事を知らぬ変態的趣味と、法医学的研究趣味とが相俟《あいま》って、伝え聞く数千年前の「木乃伊《ミイラ》の化粧」式な怪奇趣味にまで、ズット以前《まえ》から高潮しておりましたのが、斯様な機会に曝露したもので御座いましょうか。いずれに致しましてもあのように青黒い、又は茶色に変色した虐待致死の瘢痕《はんこん》を砥《といし》の粉で蔽《おお》うて、皮膚の皺や、繃帯の痕《あと》を押し伸ばし押し伸ばしお白粉《しろい》を施して行く手際なぞは、実に驚くべきもので、多分遊廓の遣手婆《やりてばば》が、娼妓の病毒を隠蔽する手段なぞから学んだもので御座いましょうか……とうとう色の黒い、傷だらけの少女の肌を、色の白い少女の皮膚の色と変らない程度にまで綺麗に塗上げてしまいました。それから口紅、頬紅、黛《まゆずみ》、粉白粉なぞを代る代る取上げて、身体各部の極く細かい色の変化を似せて、大小の黒子《ほくろ》までを一つ残らずモデルの通りに染め付けた上に、全身の局部局部の毛を床の上の少女と比較しつつ、理髪師も及ばぬくらい巧みに染め上げて、一々香油を施しました。
……と思うと今度は、手近い机の抽斗《ひきだし》を開いて赤、青、紫、その他の検鏡用のアニリン染料を、梅鉢型のパレットに取って、新しい筆でチョイチョイチョイと配合しながら、首のまわりの絞殺の斑痕を、実物と対照して寸分違わぬ色と形に染付け始めましたが、これとても実に巧妙、精緻を極めたもので、浮上っ
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