箱に納められる以前から、死んではいなかったに違いないという事が考えられるのであります。頸部《くび》の周囲《まわり》には歴然たる索溝《ストラングマルク》――絞殺の痕跡を止めたまま……。
……何という不可思議な出来事で御座いましょうか……。
しかし若林博士は格別、驚いた様子も見せませぬ。間もなくステトスコープを耳から離して、時計と一緒にチョッキのポケットに突込みましたが、如何にも満足そうに二ツ三ツ大きくうなずきながら、改めて少女の姿を見下しているので御座います。
こうした態度から察しますると若林博士は、一番最初に、この少女の屍体を検案致しました時から、この少女が医学上、稀有とされている仮死状態に陥ったものである事を、早くも看破していたものと見えます。勿論それは、その以前に馳付けたであろう附近の医師や、警察医が、充分に診察を遂げた後《のち》の事でなければなりませぬが、それにも拘わらず、仮死である事を確認致しましたのは、如何なる点に着眼したもので御座いましょうか。しかも、その上に、その仮死体を、如何なる名目の下に斯様《かよう》な棺桶に詰《つめ》て、この部屋へ運び込ませたものか……のみならずその奇怪な少女の仮死体を、こうしてタッタ一人で極秘密裡にいじくりまわしているというのは、如何なる理由と目的があっての事で御座いましょうか。尋ねるよすがもありませぬが、何に致せ一代の名法医学者、若林鏡太郎氏の事で御座いますから、古今東西に於ける仮死の例証を、既に充分に研究し尽しているので御座いましょう。そうしてこの少女の屍体が、仮死体であるという事実を、単に自分一個限りの絶対秘密にしておくという事が、この空前の怪事件の解決のために必要、止むを得ないであろう何等かの重大な理由を、彼自身に確認しているからの事で御座いましょう。
そればかりでは御座いませぬ。……その若林博士が扮装しました、この黒怪人物は、先刻から闇黒《くらやみ》の中に潜んでおりました際に、彼《か》の寝棺の蓋をソッと開きまして、この少女を仮死状態から覚醒せしむべく、同博士独特の何等かの刺戟手段を施しつつ、時々ステトスコープでもって少女の心音を窺っていた事が、疑いなく察せられるのであります。……というのはツイ今しがた、その若林博士の黒怪人物が、十一時の時計の音を聞いて電燈を点《つ》けます前に、何やらパタリと音を立てましたのは、同博士が棺の蓋を閉じた音に違い御座いませんので、ステトスコープもその時に、着物の下へ置き忘れて来たものと考えられるからであります。……が、それと同時に、極めて些細な事ではありますけれども、斯様な大切な商売道具を置き忘れるという事は、平生の同博士の極度に冷静周密な性格から推して考えますと、真に意外と思われる出来事で、今夜の若林博士は、確かに平常と違った心理状態にある。少くとも同博士が如何に夢中になって、この少女をこの世に呼び活《い》かすべく闇黒の中で苦心、熱中していたかという事は、この一事を以てしても、十二分に察せられる訳では御座いますまいか。
しかし若林博士の手腕が、如何に卓抜恐るべきものがあるかという事は、まだまだこれから追々《おいおい》とお解りになりますので、今迄のところはホンの皮切《かわきり》に過ぎないので御座います。
若林博士は、解剖台上の少女が、その仮死状態から時々刻々に眼醒つつある事を知りますと、御覧の通り極めて緊張した態度で、左右の手袋を脱ぎました。解剖着の下にまん丸く膨れております洋袴《ズボン》のポケットにその手を突込んで、色々な品物を取出しながら、一つ一つ傍《かたわら》の木机の上に並べました。白髪染《しらがぞめ》の薬瓶と竹の歯ブラシ。三四本の新しい筆。小さな墨汁《すみ》の鑵《かん》。頬紅と口紅を容れたコンパクト。化粧水。香油。クリーム。練白粉《ねりおしろい》の色々……等々々。いずれも、斯様《かよう》な部屋に似合しからぬ品物ばかりで……。それから入口に近い棚の奥に隠してありました茶色の紙包を開きますと、中から白木綿と白ネルの筒袖の着物、安っぽい博多織《はかたおり》の腰帯、都腰巻《みやここしまき》、白い看護婦服と帽子、バンドの一揃い、スリッパ、看護婦帽、ヘヤピンなぞの、いずれも新しいものばかりを取出しまして、やはり傍の木机の上に置き並べました。斯様な品物は皆、昼間から準備していたもので、多分、解剖台上の少女に着せるつもりではないかとも思われますけれども、何のために、そんな事をするのかという事はまだ判明致しませぬ。
次に若林博士は、今一度ステトスコープを取り出して、少女の心音を念入りに聴き直した上で、向うの薬棚から小さな茶色の瓶を取って参りまして、その中の無色透明な液体を、心持ち顔を反《そむ》けながら、脱脂綿の一片の上にポトポトと滴《たら》しました。それをまだお白粉の残っている少女の鼻の処へ、ソロソロと近付けつつ、左手で静《しずか》に脈を取っているので御座います。申すまでもなく、これは麻酔剤を嗅《かが》しているので……あまり早く少女が覚醒しては困る事があると見えます。しかしこの少女を麻酔さしておいて、どうするつもりか……というような事は、やはり只今のところでは判明致しませぬので、そうした若林博士の行動ばかりが、愈々《いよいよ》出《い》でて、いよいよ奇怪に見えて来るばかり……。
……と思う中《うち》に、麻酔剤を嗅《か》がせ終りました若林博士は、はだけたままの少女の胸を掻き合せますと、今度はツカツカと正面の薬棚に近づいてその片隅に突込んである美濃型、日本|綴《つづり》の帳面を一冊取り出しました。その表紙には「屍体台帳……九大医学部」と大字で楷書してありまして、その表紙を開くと、各|頁《ページ》ごとに「屍体番号」「受取年月日」「引取人住所氏名」「引渡年月日」なぞいうものが、一面に行列を立てて書込んである上と下に、一々若林という検印が捺《お》してあります。……ところでその帳面の半分に近い、書込みの残っている頁まで、バラバラと繰って参りました若林博士は、やがて最終から二番目の屍体番号「四一四」、容器番号「七」と書いたのを指で押えますと、そのまま帳面を傍の机の上に投げ出しまして、長々とした手をさし伸しながら、頭の上の二百燭光のスイッチを四個とも切ってしまいました。
室内は、もとの通りの闇黒状態に立ち帰ったので御座います。
しかも、このフィルムの闇黒状態は、ソックリこのまま、他の部屋の闇黒状態に入れ変って行くので御座いますが、果して、どのような意味の闇黒がフィルムの前途に待ち構えているで御座いましょうか……【暗転[#「暗転」は太字]】
……闇黒のフィルムが依然として諸君の眼の前に連続して行きます……十尺……十五尺……三十尺……五十尺……諸君の眼の前に凝《こ》り固まって行く闇黒の核心に、やがて黄色い、小さい、薄汚れた電球が灯《とも》りました。御覧の通り、どこかの鍵穴から覗いた陰気な室内の光景が現われました。
……ナント諸君……このような部屋を御覧になった事がありますか。
右手に見えております混凝土《コンクリート》の暗い階段は、この部屋が地下室である事を示しておりますので、正面に並んだ白ペンキ塗の十数個の大きな抽斗《ひきだし》は、皆、屍体の容器なので御座います。すなわちこの部屋は、九大医学部長の責任管理の下にある屍体冷蔵室で、真夏の日中と雖《いえど》も、肌膚《はだえ》が粟立つばかりの低温を保っているのでありますが、殊に只今は深夜の事とて、その気味の悪い静けさは、死人の呼吸も聞えるかと疑われるくらい……。
ここに姿を現わしました当の責任者、医学部長、若林博士が扮しました黒怪人物は、室内の冷気に打たれたものと見えまして、暫くの間、絶え入るばかりに苦しい咳《せき》を続けておりますが、そのうちにようようの事で、それを押し鎮《しず》めますと、ポケットから合鍵を取出して「七」と番号を打った屍体容器に取付けてある堅固な南京錠を取除きました。それから車仕掛になった頑丈な容器をゴロゴロと、有り合う台の上に引出しましたが、一息吐く間《ま》もなく、やおら上半身を傾けまして、全身を繃帯で棒のように巻き立てられた少女の強直屍体を、ズルズルと床の上に抱え下しました。見るとその強直屍体は、最前の仮死体の少女とは似ても似つかぬ色の黒い、醜い顔立ちではありますけれども、年恰好や背丈け、肉付き、又は生え際の具合なぞは、どうやら似通っているようで御座います。
若林博士は前からこの屍体に眼星をつけていたものらしく、よく検《あらた》めもせず、又は、少しの躊躇も見せずに、容器をピッタリと元に復《かえ》して、南京錠を引っかけますと、その屍体を材木か何ぞのように担ぎ上げて、一歩一歩とコンクリートの階段を昇り詰めながら、片手で壁際のスイッチを切って、地下室の電燈を消してしまいました。【暗転[#「暗転」は太字]】
ここで又、暫くの間、闇黒の場面が続くので御座いますが、しかし……お聞き下さい。あの夥しい犬の吠え声を……。
あれは今の屍体冷蔵室と、法医学教室の裏手に連なる松原の闇黒《くらやみ》伝いに、人眼を避けつつ屍体を担いで行く、若林博士の異様な姿を、その松原の附近に設けられている実験用の動物の檻の中から、野犬の群が発見して、吠え立てているところであります。それに魘《おび》えて狂いまわる猿輩《さるども》の裂帛《れっぱく》の叫び……呑気な羊や、鶏《とり》の類までも眼を醒して、声を限りに啼き立て、喚《わ》めき立てている。その闇黒の騒がしさ……モノスゴサ……。けれども斯様な動物どもが騒ぎまわる事は、殆ど毎晩といっても宜しいので、誰一人として怪しむ者はありませぬ。況《ま》して堂々たる大学の医学部長が、自分の責任管理に属する屍体をコッソリ盗んで行く……という前代未聞の怪事実を吠え立てていようなぞと、誰が思い及びましょう。九州帝国大学構内を包む春の夜の闇は、すさまじい動物どもの絶叫、悲鳴の裡《うち》に、いよいよ闃寂《げきじゃく》として更《ふ》け渡って行くばかりで御座います。
やがてその声が次第に遠ざかって、ピッタリと静まったと思う間もなく、又もパッパッと四個の二百燭光の電燈が点《つ》きますと、場面は以前の法医学の解剖台の処に立ち帰ります。
みると四百十四号の少女の強直屍体は、もうコンクリートの床の上に横たわっておりますが、一方に入口の扉を以前《もと》の通りに厳重に鎖《とざ》し終った若林博士は、解剖台の前に突立ったまま、黒い覆面の上から汗を押え押え息を切らしております。
大正十五年四月二十七日夜の、九大法医学部、解剖室には、かくして二個の少女の肉体が並べられた事になります。美しく蘇《よみがえ》りかけている少女と、醜くく強直している少女と……中にも解剖台上に紅友禅《べにゆうぜん》を引きはえました少女の肉体は、ほんの暫くの間に著しく血色を回復しておりまして、麻酔をかけられたままに細々と呼吸しはじめている、そのふくよかな胸の高低が見える位になっております。その異常な平和さ、なまめかしさ……台の下の醜い少女の顔と相対照しておりますせいか、その美しさは一層美しく、ほとんど気味の悪いくらい、あでやかに感じられるようであります。
その脈搏を取り上げた若林博士は、時計のセコンドと睨み合せつつ、麻酔の効果を検診し初めました。その真黒い博士の姿が、心持ち頭を傾けたまま、石像のように動かなくなりますと、それに連れてこの室内の空虚が、ソックリこのまま、地下千尺の処に在る墓穴のような、云い知れぬ静寂に満たされてまいります。
そのうちに脈を取っていた少女の手を投げ出して、時計をポケットに納めました若林博士は、その少女の身体《からだ》をそっと抱え上げて、部屋の隅に横たえてある寝棺の蓋の上に寝かしました。そうしてその代りに四一四号の少女の強直屍体を解剖台の上に抱え上げて、凹字《おうじ》型の古びた木枕を頭部に当てがいますと、大きな銀色の鋏《はさみ》を取上げて、全身を巻立てている繃帯をブツブツと截《き》り開く片端《
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