くは牢獄の模型とも見える円筒型の塔の無数の窓から、糸のような水蒸気がシミジミと洩れ出している光景は、何かしらこの世ならぬ場面を聯想させるに充分で御座います。それから今一つ……初めの中《うち》はチョットお気が付きかねるかも知れませぬが、やがて何となく異様に眼に映って来るであろうと思われまする品物は、右手の窓の下に、壁に接して横たえられております長方型の大きな箱で御座います。その上に白い布が蔽《おお》われているところを見ますと、いか様これは死人を納めた寝棺に相違御座いますまい。……もっとも死体解剖室に寝棺といえば、必然過ぎるくらい必然的な取り合わせでは御座いますが、それが何となく異様に眼を惹きますのは、その上に掛かっております白い蔽いが、高価な絹地らしい、上品な光りを放っているせいでも御座いましょうか……。これは余談かも知れませぬが、このような立派な寝棺が、法医の解剖室に運び込まれるような事は、まずないと申しても宜しい位で、大抵の場合、松か何かの薄い荒板製に、白墨《チョーク》で番号を書き放した程度のものが多いのですが……。
 そうした解剖台と、湯沸器《シンメルブッシュ》と、白い寝棺と、三通りの異様な物体の光りの反射を、四方八方から取り巻く試験管、レトルト、ビーカー、フラスコ、大瓶、小瓶、刃物等の夥《おびただ》しい陰影の行列……その間に散在する金色、銀色、白、黒の機械、器具のとりどり様々の恰好や身構え……床の上から机の端、棚の上まで犇《ひし》めき並んでいる紫、茶、乳白、無色の硝子《ガラス》鉢、又は暗褐色の陶器の壺。その中に盛られている人肉の灰色、骨のコバルト色、血のセピア色……それらのすべてが放つ眩《まぶ》しい……冷たい……刺すような、斬るような、抉《えぐ》るような光芒と、その異形な投影の交響楽が作る、身に滲《し》み渡るような静寂さ……。
 しかも……見よ……その光景の中心に近く、白絹に包まれた寝棺と、白大理石の解剖台の間から、スックリと突立ち上った真黒な怪人物の姿……頭も、顔も、胴体も悉《ことごと》く、灰黒色の護謨《ゴム》布で包んで、手にはやはり護謨と、絹の二重の黒手袋を、又、両脚にも寒海の漁夫が穿《は》くような巨大なゴムの長靴を穿《うが》っておりますが、その中に、ただ眼の処だけが黄色く縁取《ふちど》られた、透明なセルロイドになっております姿は、さながらに死人の心臓を取って喰うという魔性の者のような物々しさ……又は籔《やぶ》の中に潜んでいる黒蝶の仔虫《さなぎ》を何万倍かに拡大したような無気味さ……のみならず、あんなに高い処に在る電球のスイッチを、楽々と手を伸して捻《ねじ》って行った、その素晴しい背丈《せい》の高さ……。こう申しましたならば諸君はお察しになりましたでしょう。この怪人物こそは、彼《か》の有名な「血液に依る親子の鑑別法[#「血液に依る親子の鑑別法」に傍点]」の世界最初の発見者であると同時に、現在『精神科学応用の犯罪と[#「精神科学応用の犯罪と」に傍点]、その証跡[#「その証跡」に傍点]』と題しまする、空前の名著を起草しつつある現代法医学界の第一人者、若林鏡太郎氏その人であります。
 その名法医学者、若林鏡太郎氏は、只今申しました呉一郎少年の心理遺伝を中心とする精神科学界空前の大犯罪事件が勃発後、約二十時間を経過致しましたこの深更《しんこう》になりますと、何等かの仕事をすべく、コッソリとこの解剖室に這入りまして、斯様《かよう》に物々しい準備を整えたまま、時計の針が十一時……宿直の医員や、当番の小使が寝静まる時刻を指すのを、今や遅しと待っていた者である事が、現在の状況に依って、お察し出来る事と思いますが……サテ斯様に電燈を点《つ》けてみますと……ナント諸君。ここに又一つ奇妙な事実があらわれているのに、お気付きになりませんか。
 この部屋の内部の状況は、御覧になりまする通り初めてのお方にとっては、何一つとして奇怪でないものはない。無気味でないものはない……と思われるので御座いますが、それでも今まで御覧になりましたところによって、「若林博士は何かしら解剖台に向って仕事を始めようとしているのだナ」とか「その仕事の材料になる屍体は、多分あの寝棺の中に納まっているのだナ」というぐらいの事は、もはや十分に御推察になっている事と思います。
 しかし……もし左様《さよう》と致しますれば、その若林博士の助手となるべき人間が、この部屋の中に一人も見当らないのは、どうした事で御座いましょうか。斯様《かよう》な屍体の解剖には、大抵の場合何等かの意味で、一人か二人の人間が立会っている事は、殆ど原則ともいうべき通例となっているのでありますが……にも拘わらず、御覧の通り若林博士は、そのような人間を一人も室内に近づけていないところを見ますると、何故《なにゆえ》か判明《わか》りませぬが若林博士は、今夜に限ってタッタ一人で、或る重大な、極めて秘密の仕事を決行せねばならぬ必要に迫られているのではありますまいか……否……解剖台の前後に在る二つの扉の双方ともに、鍵を挿し放しにしている事実に照しますと無論そうでなければならぬ。普通の事件で持ち込まれた屍体の解剖や検案なぞとは違った、非常的な秘密事項が今夜の仕事に含まれているに相違ない……という事が、明らかに推測されるで御座いましょう。
 ……と思ううちに、部屋の隅の洗面器の処へ行って、手袋を穿《は》めたままの両手を念入りに洗って参りました若林博士は、やおら身を屈《かが》めまして、寝棺の白い覆布《おおい》を取り除《の》けて、これとてもこのような室には滅多に見受けられぬ、分厚い白木の棺の蓋を開きますと、中から一個の盛装した少女の屍体を取り出しました。
 前からの説明を御記憶の諸君には、最早《もはや》、この少女が何者であるかという、あらかたの御推察が付いている事と存じます。
 この少女こそは、前回に御紹介致しました本事件の主人公、呉一郎の花嫁となって、華燭《かしょく》の典《てん》を挙げるばかりに相成っておりましたその少女で、名前を呉《くれ》モヨ子と申します。当年取って十七歳に相成りまする絶世の美少女で御座います。その許嫁《いいなずけ》になっておりまする呉一郎……|K《ケー》・|C《シー》・|MASARKEY《マサーキー》会社の超特作は、超時代的、超常識的、精神科学映画『狂人解放治療』の主人公たる無双の美少年俳優の相手役となりまして、互いに、あらゆる精神科学的の妖美と、戦慄とを描き出すべきそのエース花形女優は、かくして取りあえず、寝棺の中の屍体の姿となって、諸君にお目見得をする次第で御座います。
 当年流行の新月色に、眼も眩《まば》ゆい春霞と、五葉の松の刺繍を浮き出させた裲襠《うちかけ》。紫地、羽二重《はぶたえ》の千羽鶴、裾模様の振袖三枚|襲《がさ》ねの、まだシツケの掛かっているのを逆さに着せて、金銀の地紙を織出した糸錦の、これも仕立卸《したておろ》しと見える丸帯でグルグルグルと棒巻にしたまま、白木の寝棺に納めてある……その異様な美しさ、痛々しさ。この事件の並々ならぬ内容が窺われますばかりでなく、そうした死骸を、こうして棺に納めた人々の思いまでも察せられまして、そぞろに胸が塞《ふさ》がるばかりで御座います。
 しかし最早すでに、学術の権化ともいうべき心理状態になっているらしい若林博士は、そんな事を気にかけるような態度を微塵《みじん》も見せませぬ。衣裳なんぞには用はないという風に、極めて無造作に、裲襠と、帯と、振袖の三枚|襲《がさね》を掴みのけて、棺の傍《かたわら》に押し込みますと、その下から現われましたのは素絹《しらきぬ》に蔽われました顔、合掌した手首を白木綿で縛られている清らかな二の腕、紅友禅《べにゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》、緋鹿子絞《ひかのこしぼ》りの扱帯《しごき》、燃え立つような緋縮緬《ひぢりめん》の湯もじ、白|足袋《たび》を穿かされた白い足首……そのようなものがこうした屍体解剖室の冷酷、残忍の表現そのものともいうべき器械、器具類の物々しい排列と相対照して、一種形容の出来ないムゴタラシサと、なまめかしさとを引きはえつつ、黒装束の腕に抱えられて、煌々《こうこう》たる電燈の下に引き出されて参ります。中にも一際《ひときわ》もの凄くも亦《また》、憐れに見えますのは、丈《たけ》なす黒髪を水々しく引きはえて、グッタリと瞑目している少女の顔に乱れ残った、厚化粧と口紅で御座います。そうして……おお……あれを御覧なさい。
 あの襟化粧をした頸部《くび》の周囲《まわり》に、生々しい斑点となって群がり残っている絞殺の痕跡……紫や赤のダンダラを畳んでいる索溝《ストラングマルク》を……。
 ……それを静かに、大理石の解剖台上に横たえました黒怪人物の若林博士は、やはり何の容赦もなく、合掌した手首の白木綿の緊縛を引きほどき、緋鹿子絞りの扱帯を解き放って、長襦袢の胸をグイグイと引きはだけました。そうして流石《さすが》は斯界《しかい》の権威と首肯《うなず》かれる手練さと周到さをもって、一点の曇りもない、玲瓏《れいろう》玉のような少女の全身を、残る隈《くま》なく検査して終《しま》いましたが、やがてホッとしたように肩で息をつきますと、両腕を高やかに組んで、少女の屍体をジッと見下したまま、真黒い鉄像のように動かなくなりました。
 ……この深夜に、斯様《かよう》な場所に於て、世にも稀な美少女の屍体と、こうしてタッタ一人で向い合っている黒装束の若林博士は、果して何事を考えているので御座いましょうか……この少女の死に絡《から》まる残酷と奇怪を極めた事情を、屍体を前にしつつ今一度考え直して、そこに博士独特の透徹、鋭利なる観察の焦点を発見すべく、苦心惨憺しているので御座いましょうか……それともこの屍体が、この教室に於て未《いま》だ曾《かつ》て発見された事のない程に、無残な美くしさと、深刻なあでやかさ[#「あでやかさ」に傍点]とをあらわしておりますために、生涯を学術のために捧げている独身の同博士も、思わず凝然、恍惚として、何等かの感慨無量に及んでいるので御座いましょうか……否々。そのような想像は、厳正周密なる同博士の平生の人格に対して、敬意を失する所以《ゆえん》で御座いますから、これ以上に深く立入らぬ事に致します。
 ……と……やがて突然、吾《われ》に帰ったようにハッとして、誰も居ない筈の部屋の中をグルリと見廻しました若林博士は、黒装束の右のポケットに手を突込んで、何やら探し索《もと》めているようで御座いましたが、そのうちにフト又、思い出したように寝棺の箱に近付いて、美しく堆積した着物の下から、子供の玩具ほどの大きさをした黒い、喇叭《らっぱ》型の筒を一本取り出しました。これはこの節の医者は余り用いませぬ旧式の聴診器で、人体内の極く微細な音響まで聴き取ろうと致します場合には、現今のゴム管式のものよりもこちらの方が有利なので御座います。若林博士は、その喇叭型の小さい方の一端を、少女の屍体の左の乳房の下に当てがいまして、他の一端を覆面の下から、自分の耳に押当てて、一心に聴神経を集中しているようで御座います。
 屍体の心音を聴く。……おお……何という奇怪な若林博士の所業で御座いましょう。見ている者の胸の方が、却《かえ》ってオドロオドロしくなりますくらいで……。
 ……けれども御覧なさい。若林博士は依然として旧式聴診器《ステトスコープ》に耳朶《みみたぶ》を押当てたまま、片手で解剖着の下から、銀色の大きな懐中時計を取り出して、一心に凝視しております……確かに心臓の鼓動音が聞えているので御座います。すなわち、この解剖台上の少女の肉体は、まだ生きているに違いないのであります。……そういえば最前、若林博士がこの少女の全身を検査した時に、死後相当の時間を経過した屍体の特徴として、どこかに、是非とも現われていなければならぬ薄青い死斑が、どこにも影を見せなかった……又、強直した模様もなかったところを見ますると、多分、この少女はあの寝棺に納まっているうちから……否。あの棺
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