心理遺伝なぞいうものは、とても剣呑《ケンノン》で発表出来ないね。普通の人間よりも、精神病者の方が、気が慥《たし》かだという学説なんだからね。ハハハハ……」
「そうですねえ。科学ぐらい人類を侮辱しているものはないという事を、大抵の人間は知らずにいるのですからね」
「そうだとも、しかし『人間は猿の子孫也』と聞いてソレ見ろと得意になっている連中が……お前達はみんなキチガイだと云われると、慌てて憤《おこ》り出すところは奇観じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだという事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えているらしいんだからね。ワッハッハッハッハ……」
なぞと笑い合った位だから……。
だから吾輩は訂正追加のために、手許に取り寄せていた「脳髄論」の公表までも差し控えてしまった。そうして約半年後の今日只今、そんな著述の原稿を一緒に、みんな引っくるめて焼き棄ててしまった。
ナニ。別に理由は無い。つまらないからサ。
人類の文化は、吾輩の研究を受け入れるべく、余りにアホラシク幼稚だからサ。……しかも、そんな大きな事実に二十年もの永い間、気付かないで、コンナ桁外《けたはず》れの研究に黒煙《くろけむり》を立て続けて来た吾輩のアホラシサが、今更にシミジミとわかって来たからサ。或は吾輩の精神異状が、こうして静まりかけているのかも知れないが……呵々《かか》……。
……但し……そんな著述の中でも一番|美味《おい》しいロースのクラシタどころだけは、この遺言書の中に留めておいて、適当の時代に、こうした研究を想い立つであろうキチガイ学者の参考に供する事にした。その中でも吾輩の「脳髄論」の内容は、ここに挟んだ切抜きの通り、既に新聞に素《す》ッ破抜《ぱぬ》かれているので、これ以上の内容がある訳でもないから、惜《くや》しい事はちっともない。又、精神解剖学以下、精神病理学に到る研究のヒレどころも、既に、二十年前に吾輩が、卒業論文として九大に提出したこの「胎児の夢」の論文の中に含まれているのだから大略するとして、ここには只、吾輩大得意の「狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係に就《つい》て略記しておきたいと思う。
これを前の新聞記事や、胎児の夢の論文と一緒に読めば、前述の美少年と美少女を材料とする怪実験が、大正十五年の十月十九日……すなわち今日の正午を期して、空前の成功を告げると同時に、絶後の失敗に終ったという、奇々怪々な精神科学の学理原則の活躍が、明々、歴々と判明して来る。同時に現代文化の粋を極めた常識とか、学識とかいうものが、一挙に木《こ》ッ葉微塵《ぱみじん》となって、あとには空《から》っぽの頭蓋骨だけが、累々《るいるい》として残る事になる……という訳なんだが……。
……ところで……エート。ここいらでチョット失敬して、消えた葉巻に火をつけるかな。……実は大好物でね。どんなに貧乏生活をしている時でも、コイツとアルコール分だけは座右に欠かさなかったものだが……もはや死ぬまでに何本というところまで漕ぎ付けたんだから、一つ勘弁して頂きたい。ハハハハ……。
お待ち遠さま……サテ然るにだ……吾輩の極楽行きの直接原因を生んだ彼《か》の「狂人解放治療場」を見た人々は、誰でも狂人の散歩場ぐらいにしか思っていないようである。中には新聞の記事なぞを読んで「ハハア成る程」なぞと首肯《うなず》く者が居るかと思うと、すぐにあとから「いかにもねえ。こうしておけば狂人も昂奮しませんね」とか「ハハア。一種の光線治療ですね」なぞと、知ったか振りを云うくらいの事で、誰一人としてこの実験の正体を看破した者は居ないから面白い。否。この実験の秘密はこの教室で仕事をしている副手や助手にさえも洩した事はないのだから、彼等は唯、何か非常に高遠な実験らしい……ぐらいにしか心得ていないのであるが、実は他愛ない……しかもステキに面白い実験なのだ。「解放治療」なぞいう鹿爪《しかつめ》らしい名前は、世を忍ぶ仮の名に過ぎないのだ。
何を隠そうこの「解放治療」の実験は、吾輩が嘗て、当大学の前身であった福岡医科大学を卒業する時に書いた「胎児の夢」と名付くる一篇の論文の実地試験に外ならないのだ。
但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同志に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の心理の遺伝で、極く極く有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりもモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心理遺伝の発作なんだ。近頃流行の猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、尖端的な、グロテスクな、怪奇、毒悪《がいどく》を極めた……ナニ、まだ見た事がないから見せてくれ。お易い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。
……サアサア入《い》らっしゃい入らっしゃい。世界中、どこを探しても見られぬ生きた魂の因果者の標本、日中の幽霊、真昼の化け物、ヒュ――ドロドロの科学実験はこれじゃこれじゃ……見料《けんりょう》は大人が十銭、小供なら半額、盲人《めくら》は無料《ただ》……アッ……そんなに押してはいけない。狂人《きちがい》連中に笑われますぞ。お静かにお静かに……。
……エヘン……。
ここに御紹介致しまするは、九州帝国大学、医学部、精神病科本館の裏手に当って、同科教授、正木先生が開設されましたる、狂人解放治療場の「天然色、浮出し、発声映画」と御座います。映写致しまする器械は、最近、九大、医学部に於きまして、眼科の田西博士と、耳鼻科の金壺《かなつぼ》教授とが、正木博士と協力致しまして、医学研究上の目的に使用すべく製作されましたもので、実に精巧無比……目下米国で研究中の発声映画なぞはトーキー及ばない……画面と実物とに寸分の相違もないところにお眼止《めと》めあらむ事を希望致します。
まず……開巻第一に九州帝国大学、医学部の全景をスクリーンに現わして御覧に入れます。
御覧の通り九大の構内と構外とは一面に、一《ひ》と続きの松原の緑に埋められておりますが、その西端に二本並んだ大煙突の下《もと》に見えます見すぼらしい青ペンキ塗り、二階建の西洋館が、天下に有名なるキチガイ博士、正木先生の居《お》られる精神病学教室の本館で、そのすぐ南側に見えます二百坪ほどの四角い平地が、これから御紹介申上げます「狂人の解放治療場」で御座います。……撮影機と技師とを搭載致しました飛行機はだんだんと下降致しまして、精神病科本館階上、教授室の南側の窓の縁に着陸致します。……まるで蜻蛉《とんぼ》か蠅《はえ》なんぞのようで……時に大正十五年十月十九日……の午前正九時と致しておきましょうか。
この解放治療場を取巻いておりまする赤煉瓦の塀は、高さが一丈五尺。これに囲まれました四角い平地は全部この地方特有の真白い、石英質の砂で御座いますから、清浄この上もありませぬ。真中に桐の木が五本ほど、黄色い枯れ葉を一パイにつけて立っております。この桐の木はズット以前からここに立っておりまして、本館の中庭の風情となっておったもので御座いますが、この解放治療場開設のため周囲を地均《じなら》し致しまして以来、斯様《かよう》に著しい衰弱の色を見せて参りましたのは、何かの凶《わる》い前兆と申せば申されぬ事もないようであります。或《あるい》はこの桐の木が、斯様な思いがけないところに封じ込られたために精神に異状を呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねております。……無駄を申上げまして恐れ入りました。
治療場の入口は、東側の病室に近い処に只一つ開いておりまして、便所への通路を兼ておりますが、その入口板戸の横に切り明《あけ》られた小さな、横長い穴から、黒い制服制帽の、人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。
この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面に真青な空の光りを受て、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、座ったりして動いております。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人居ります。
これが正木博士の所謂「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている狂人たちであります。……しかも、これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、轟然《ごうぜん》たる一発の午砲《ごほう》が響き渡りますと、それを合図にこの十人の狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を聳動させると同時に、正木先生を自殺の決心にまで逐《お》い詰める事に相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既に只今から、この解放治療場内にアリアリと顕《あら》われているので御座いますから、よくお眼を止められまして、狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらむ事を希望いたします。
そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。
まず、最初に現わしまするは、西側の煉瓦塀《れんがべい》の横で、双肌脱《もろはだぬ》ぎになって、セッセと働いている白髪の老人で御座います。この老人は御覧の通り、両手に一挺の鍬《くわ》を掴んで打振《うちふり》ながら、煉瓦塀に並行した長い畑を二|畝《せ》半ほど耕しておりますが、しかしその体躯《からだ》を見ますと御覧の通り、腕も、脛《すね》も生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い皺も見えませぬので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われませぬ。ことにミジメなのはその掌《てのひら》で、鍬を握っておりますから、よくは見えませぬが、その鍬の柄《え》の処々に、黒い汚染《しみ》がボツボツとコビリ付て見えましょう。あれは、その掌の破れた処からニジミ出している血の痕跡《あと》で御座います。しかも……老人は、それでも屈せず、撓《たゆ》まず、セッセと鍬を打ち振て行くところを見ますと、正木博士の発見にかかる、心理遺伝の実験が、如何に残忍、冷厳なものであるかという事が、あらかた、お解りになるで御座いましょう。
次にあらわしまするはその横に突立《つったっ》て、老人の畠打《はたうち》を見物致しております一人の青年で御座います。お見かけの通り黒っぽい木綿着物に白木綿の古|兵児帯《へこおび》を締《しめ》て、頭髪《あたま》を蓬々《ぼうぼう》とさしておりますから、多少|老《ふ》けて見えるかも知れませぬが、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに日陽《ひなた》に出て来ましたせいか、肌が女のように白く、ホンノリした紅い頬に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り廻す白髪の老人の手許を一心に見守っております。その表情だけを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その眼眸《まなざし》と、瞳の光りの清らかなこと……まるで深窓に育った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これは或る種類の精神病者が、正気に帰る前か、又は発作を起す少し前に、あらわしまする特徴で、正木博士が始終手にかけておられました、真狂《しんきょう》と、偽狂《ぎきょう》の鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付なので御座います。
次には今の老人と青年の、遥か背後《うしろ》の方に跼《かが》まっている一人の少女にレンズを近付てみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く瘠せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪を括《くく》り下げに致しておりますが、老人が作りました畠の縁《へり》に跼みまして、繊細《かぼそ》い手で色んなものを植え付ております。桐の落葉、松の
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