のである。

 胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同志の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほか色々勝手な私利私慾を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。……主君を弑《しい》して城を乗取るところ……忠臣に詰腹《つめばら》を切らして酒の肴《さかな》に眺めているところ……奥方や若君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫を乾《ほ》し殺して、仇《あだ》し男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたまらなさ……嫁女《よめじょ》に濡衣《ぬれぎぬ》を着せて、首を縊《くく》らせる気持よさ……憎い継子《ままこ》を井戸に突落す痛快さなぞ……そのほか大勢で生娘《きむすめ》を苛《いじ》める、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて虐待する、その気味のよさ……大事な金を遣い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の美味《うま》さ……毒薬実験……裏切行為……試斬《ためしぎ》り……弱い者|苛《いじ》め……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変って行く。又は自分の先祖たち……過去の胎児自身が、隠し了《おお》せた犯罪や、人に云い得ずに死んだ秘密の数々が、血塗《ちまみ》れの顔や、首無しの胴体や、井戸の中の髪毛《かみのけ》、天井裏の短刀、沼の底の白骨なぞいうものになって、次から次に夢の中へ現われて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、魘《おび》えて、苦しがって、母の胎内でビクリビクリと手足を動かしている。
 こうして胎児は自分の親の代までの夢を見て来て、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。そのうちに母体に陣痛が初まって子宮の外へ押し出される。胎児の肺臓の中にサッと空気が這入る。その拍子に今迄の夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までと丸で違った表面的な、強烈、痛切な現実の意識が全身に滲《し》み渡る。ビックリして、魘えて、メチャクチャに泣き出す。かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び初める。そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に眼醒め初めるのである。
 何の記憶もない筈の赤ん坊が、眠っているうちに突然に魘えて泣き出したり、又は何か思い出したようにニッコリ笑ったりするのは、母胎内で見残した「胎児の夢」の名残を見ているのである。生れながらの片輪《かたわ》であったり、精神の欠陥が在ったりするのに対しても、それぞれに相当の原因を説明する夢が、その胎生の時代に在った筈である。又は胎児の骨ばかりが母胎内に残っていたり、或は固まり合った毛髪と、歯だけしか残っていないような所謂《いわゆる》、鬼胎《きたい》なるものが、時々発見されるのは、その胎児の夢が、何かの原因で停頓するか、又は急劇に発展したために、やり切なくなって断絶した残骸でなければならぬ。[#地から1字上げ]――以上――


  空前絶後の遺言書[#「空前絶後の遺言書」は本文より5段階大きな文字]

      ――大正十五年十月十九日夜[#「――大正十五年十月十九日夜」は本文より1段階大きな文字]
[#地から2字上げ]――キチガイ博士手記

 ヤアヤア。遠からむ者は望遠鏡にて見当をつけい。近くむば寄って顕微鏡で覗いて見よ。吾《われ》こそは九州帝国大学精神病科教室に、キチガイ博士としてその名を得たる正木敬之とは吾が事也。今日しも満天下の常識屋どもの胆《きも》っ玉をデングリ返してくれんがために、突然の自殺を思い立《たっ》たるその序《ついで》に、古今無類の遺言書を発表して、これを読む奴と、書いた奴のドチラが馬鹿か、気違いか、真剣の勝負を決すべく、一筆見参仕るもの……吾と思わむ常識屋は、眉に唾《つばき》して出《い》で会い候え候え……。
 ……と書き出すには書き出してみたがサテ、一向に張合がない。
 ……ない筈だ。吾輩は今、九大精神病学教室、本館階上教授室の、自分の卓子《テーブル》の前の、自分の廻転椅子に腰をかけて、ウイスキーの角瓶を手近に侍《はべ》らして、万年筆を斜《ななめ》に構えながら西洋大判罫紙《フールスカップ》の数帖と睨《にら》めっくらをしている。頭の上の電気時計はタッタ今午後の十時をまわったばかり……横啣《よこくわ》えをした葉巻からは、紫色の煙がユラリユラリ……何の事はない、糞勉強のヘッポコ教授が、居残りで研究をしている恰好だ。トテモ明日《あす》の今頃には、お陀仏《だぶつ》になっている人間とは思えないだろう。……アハハハ……。
 吾輩は、いつもコンナ風に、常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。兎《と》にも角《かく》にも吾輩を一種の狂人と認めている満天下の常識屋諸君に同情するよ。
 そこでだ……そこで何から書き初めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。
 併《しか》し、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書く事にすると……まず第一に明かにしなければならぬのは吾輩の自殺の動機であろう。
 ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関聯している……という事が断言出来る……エヘン。笑っちゃいけない。
 そもそもその少女の美しい事といったら迚《とて》も迚も迚も迚もと二三十行書いて止めておいた方が早わかりする位だ。世界中のハンケチの上箱《うわばこ》、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣裳屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどの在らん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮影所を全部引っくり返して来ても、こんなに勿体《もったい》ないほど清らかな、痛々しいほど匂やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。これ位にしておこう。年甲斐もなくソンナ別嬪《べっぴん》に肱《ひじ》鉄砲を喰って、この世をダアと観じたな……なぞと感違いされては困るから……。そんな御心配はコッチから願い下げで御座る。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍から削《けず》られているのだから……。
 そんならその少女が死んだためにこの世を果敢《はか》なんで……なぞと又、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが一寸《ちょっと》待ったり……慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に這入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振りと負けず劣らずの、ステキ滅法界《めっぽうかい》もない玉の如き美少年と、偕老同穴《かいろうどうけつ》の契《ちぎり》を結ぶ事になっているのだ。そこで吾輩のこの世に於ける用事もハイチャイを告る事になるのだ……と云ったら又、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、生《いき》た美少年のラブシーンを夢に見るか何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。
 ……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナ書きにくい、自烈度《じれった》いものとは知らなかった。しかしそれでも折角《せっかく》自殺するのだから、何とか書いておかないと、アトで張合がないだろうと思って、お負《まけ》のつもりで書く訳だが、何を隠そう、その鬼籍に入った美少女とピンピン生きている美少年とが、現実に接吻、抱擁する事に依て、吾輩が畢生《ひっせい》の研究事業である精神科学の根本原理……即ち心理遺伝と名づくる研究発表の結論となるべき実験が、芽出度《めでた》し芽出度しになる手筈になっているのだ。
 どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、又とほかに在りますかい。アハハハ……。
 イヤ。恐らく無い筈だ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……のみならずその中でも亦、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥や獣《けもの》や、人間の屍体なぞを相手に研究は出来ない。何故かというと鳥や獣は、或る種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝腎の実験材料になる魂が無い。必ずやピンピン溌溂たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんな立派な精神が、突然に発狂して、やがて又、次第次第に回復して行く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければならないのだから大変である。ことに吾輩が研究の主題《テーマ》として選んだ材料を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾とも名付くべき、世にもややこしい代物《しろもの》と来ているんだから厄介この上もない。
 そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしい御方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は冒頭《のっけ》から生命《いのち》がけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験の煽《あお》りを喰って、自分自身が、自殺にまで追い詰められる事になって……イヤ。まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち付いて、紫の煙と、琥珀《こはく》色の液体を相手に悠々と万年筆を揮《ふる》う事にする。
 諸君もユックリ読んでくれ給え。遺言とか何とかいったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、又は無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心となっている稀代の美少年と、絶世の美少女との変態性慾に関する破天荒の怪実験が、ドンナ学理の原則に支配されて、ドンナ風に緊張し、白熱化しつつ、実験者たる吾輩の全生涯を粉砕すべく爆発しかけて来たかという、その自然発火の裏面のカラクリが、次第次第に手に取る如く判明して来るんだから……。

 話はすこし以前《まえ》にさかのぼる。
 今年の十月の何日であったかに、福岡の某新聞の学術欄で、吾輩の「脳髄は物を考える処に非《あら》ず」という意味の談話が連載された時の、世論の反響のドエラサには正直のところタジタジと来たね。「人間という動物は自惚《うぬぼ》れと迷信で固まっているものだ」ぐらいの事はウスウス知っていないではなかったが、それにしてもコンナまで篦棒《べらぼう》なものであろうとは、この時がこの時まで気が付かなかった。彼等、すなわち常識屋は、新聞に、雑誌に、念入りなのは書信に、もっと御念入りなのは吾輩に直接面会などいう、ありとあらゆる手段を以て、吾輩の放言をタタキ潰すべく試みた。殊に肝《きも》を潰すべきは、研究の自由をモットーとしているこの大学の中で、お上品な顔をして、アゴを撫でたり、ヒゲを捻《ひね》ったりしている教授連中までが、一斉に奮起して、「あの非常識にして暴慢、不謹慎な、狂人学者《ヒポマニー》をタタキ出せ。然《しか》らずむば赤煉瓦の中へタタキ込んでしまえ」というので、机を叩いて総長に迫ったという。
 これを聞いた時には流石《さすが》に海千山千の吾輩も、尻に帆を上げかけたね。大学の中だけは学術研究の安全地帯だと思っていたのが、豈計《あにはか》らんやのビックリ箱と来たもんだからね。幸いにして総長が、行政官じみた事なかれ主義の男で、体《てい》よくマアマア式に切り抜けたお蔭で、吾輩も今日までマアマアに有り付いて来た訳だが、それにしても考えて見れば阿呆《あほ》らしい話じゃないか。ドウセ博士とか、大学教授とかになる人物なら、一番上等のところで名誉狂か、研究狂程度の連中にきまっている。それを恥かしいとも思わないで、今一枚|上《う》わ手《て》の名誉狂、兼、研究狂である吾輩を捉まえて、キチガイ呼ばわりをするんだから、片腹痛からざるを得ないではないか。この時に吾輩が、如何に片腹痛かったかは、吾輩の親友若林学部長が知っている。
「コンナ塩梅《あんばい》式では吾輩の精神解剖学や精神生理、精神病理、
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