の旅行《たび》じゃ。北京《ペキン》、ハルピン、ペテルスブルグじゃ。赤いモスコー、四角い伯林《ベルリン》、酔うがミュンヘン、歌うが維納《ウインナ》、躍る巴里《パリー》や居眠る倫敦《ロンドン》、海を渡れば自由の亜米利加《アメリカ》。女の市場がアノ紐育《ニューヨーク》じゃ。桑港《シスコ》の賭博《ばくち》よ。市俄古《シカゴ》の酒よと。千鳥足まで米利堅《メリケン》気取りの。阿呆つくした十年がかりじゃ。見たり聞いたりして来た中でも。タッタ一つの土産《みやげ》というのが。ナント恐ろし地獄の話じゃ……スカラカ、ポクポク。チャチャラカ、ポクポク……
▼あ――ア。さても恐ろし地獄の話じゃ。しかも私の凹《へこ》んだこの眼で、チャンと見て来た事実の話じゃ。今日が封切、お金は要らない。要らぬばかりかその聞き賃には、こんな書物《かきもの》を一冊上げます。私が只今唄うております。歌の文句の活版刷りです。あとで何やらマヤカシ物をば。無理に買わせる手段《てだて》じゃないかと。疑うお方があるかも知れぬが。ソンナ心配一切御無用。これは私の道楽仕事じゃ。人類文化の宣伝事業じゃ。何も参考、話の種だよ。サアサ寄ったり、聞いたり見たり……外道――祭《さ》ア――エ――文《もん》。キチガ――ア――イ――地《じ》イ獄《ごく》ウ――……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
一
▼あ――ア。外道祭文キチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば。娑婆《しゃば》というのがここいらあたりじゃ。ここで作った吾が身の因果が。やがて迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐり廻《めぐ》って落ち行く先だよ。修羅や畜生、餓鬼道越えて。ドンと落ちたが地獄の姿じゃ。針の山から血の池地獄。大寒地獄に焦熱地獄。剣樹《けんじゅ》地獄や石斫《いしきり》地獄。火煩《かぼん》、熱湯、倒懸《さかづり》地獄と。数をつくした八万地獄じゃ。娑婆で作った因果の報《むく》いで。切られ、砕かれ、焙《あぶ》られ、煮られ。阿鼻《あび》や叫喚七転八倒。死ぬに死なれぬ無限の責め苦じゃ。もしもその声、聞いたら最後じゃ。頭張り裂けクタバルなんぞと。高い処《とこ》から和尚《おしょう》の談義じゃ。……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。高い処《とこ》から和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂じゃ。生きた坊主の賽銭《さいせん》集めじゃ。釈迦《しゃか》も知らない嘘八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と品事《しなこと》かわって。鉦《かね》を叩かず、念仏唱えず。十万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの川竹《かわたけ》地獄。義理と人情《にんじょ》のカスガイ地獄。又は犯した悪事のむくいで。御用、捕《と》ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジンも通らぬ。息も吐《つ》かれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの閻魔《えんま》は医学の博士で。学士連中が牛頭馬頭《ごずめず》どころじゃ。但し地獄で名物道具の。昔の罪科《つみとが》、見分けて嗅《か》ぎ出す。見る眼、嗅ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す清浄玻璃《せいじょうはり》の。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、又、無かろうが。本気、狂気の見分けも附けずに。滅多矢鱈《めったやたら》に追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が逆立《よだ》つ。地獄というのがそこらに在ります。見かけは立派な精神病院。嘘というなら這入って見なされ。責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。ナント恐ろしキチガイ地獄じゃ。サテモ恐ろし精神病院。なぞと云うても皆様方には。まだまだ合点《がてん》が行きかねましょうが。物は順序じゃお聞きなされよ。聞いているうち如何《いか》にも、もっとも、そんな事とは知らずにいたわい。成る程そうかと合点が行きます。合点が行ったら八万四千の。身内の毛穴がゾクゾク粟立《あわだ》つ。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ……チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ。さても斯様《かよう》な地獄の起りが。曰《いわ》く因縁イロハのイの字の。そもや初めと尋ねるならば。文明開化のお蔭《かげ》と御座る。そこで世界の文明開化の。日進月歩の由来と申せば。科学知識の尊《たっ》とい賜物《たまもの》。中に尊といお医者の仕事じゃ。人の病気を治癒《なお》すが役目じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。人の病気を治癒《なお》すが役目じゃ。そこでお医者の仕事の中でも。人の身体《からだ》の狂いをなおす。外科や内科の治療の仕方と。人の心の狂いをなおす。精神病院の手当ての仕方と。違うところを比べてみます。アッとビックリ、シャクリが止まるよ。トテも驚く進歩の違いじゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。トテモ驚く進歩の違いじゃ。違う筈だよ相手が違う。人の身体《からだ》は形が見えます。手足胴体触ればわかるよ。五臓六腑も解剖《ひら》けば見えます。打診、聴診、X《エッキス》光線。ピルケ反応、血液検査と。数をつくした診察道具じゃ。たとい何やら解らぬ病気や。薬ちがいや診察ちがいや。又は手当ての違いで死んでも。あとで屍体《したい》を解剖したなら。どこが悪いと、すぐ様《さま》わかるよ。そこで診察治療の仕方が。日進月歩で開けて行きます。これに引き換え神様とても。人の心は診察出来ない……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。人の心は診察出来ない。たとい如何なる名医じゃとても。人の精神、心の狂いの。どこの脈見て、どの舌出させて。どこの苦労に注射をするやら。どこの心配|切解《せっかい》するやら。癇《かん》の虫見る眼鏡も無ければ。あなた恋しで上った熱度が。寒暖計にも上った事かや。贋《にせ》のキチガイ真実《ほんと》のキチガイ。レントゲンでも透かして見えない。声も聞えず姿も見えない。屁《へ》より不思議な心の正体。これがどうして診察されよか。馬鹿に附けよう薬は無いと。昔の譬《たと》えは今でも真実《ほんま》じゃ。つまるところが精神病は。診察治療が絶対不可能。科学知識で研究出来ない。わけのわからぬ物じゃとわかる……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。わけのわからぬ物じゃと解かると。ここでも一つ理屈のわからぬ。奇妙不思議な事実に気が付く。そもやソモソモ一体全体。人の精神、心の狂いは。診察、治療が出来ぬとなったら。現在世界のどこでもここでも。精神病院、神経治療じゃ。又は瘋癲《ふうてん》、脳病院じゃと。四角四面の看板ひろげて。意匠|凝《こ》らした玄関構えじゃ。高価《たか》い診察、治療の代《しろ》だよ。入院、看護の料金取り立て。肩で風切る精神病医は。どんな仕事をしているものかや。あれは詐欺師《やまし》か掴ませものかと。どなたも御不審なさるであろうが。チョット待ったり話は順序じゃ。世にも馬鹿げた内幕話じゃ。診察治療が出来ないお蔭で。お医者がステキに儲《もう》かる話じゃ。これがホンマの阿呆陀羅経《あほだらきょう》だよ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
二
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スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
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▼あ――ア――ああア。扨《さて》も昔のその又昔。むかし昔のその大昔。科学知識の進まぬ頃では。人の身体《からだ》の病気というても。人の心の病気と同様。何が何やら解らぬために。診察治療が当てズッポーだよ。家相、方角、星占いだよ。何《な》んぞ彼《か》んぞの障《さわ》りというては。祈祷、禁厭《まじない》、御神水《おみず》じゃ、お守札《ふだ》じゃ。御符《ごふう》なんぞを頂戴させて。どうぞ、こうぞで済まして来たが。それじゃ治療《なお》らぬ病気の数々。そこで薬が発見されます。服《の》めば病気がケロリとよくなる。それをたよりに調べた揚句《あげく》が。人の病気は身体の中の。ここが斯様《かよう》に狂うが原因《もと》じゃと。わかった理屈が医学のはじまり。今では解剖、生理に病理。医化学、細菌、薬物そのほか。外科じゃ内科じゃ、皮膚科じゃ、耳鼻科じゃ。眼科、整形、婦人や小児と。隅から隅まで手に品かえて。水も洩らさぬ器械やお薬。人の身体の狂いを治療《なお》す。科学知識の大光明が。日々に明るく輝やき渡るよ……スカラカ、チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。日々に明るく輝やき渡るが。これに引き換え精神病だよ。人の心の狂いを治癒《なお》す。医者の診察、手当ての仕方は。ドンナ進歩をしたかと見ますと。ズント昔は精神病者を。神の心が移ったものと。畏《おそ》れ敬い礼拝したり。又は生き霊、死霊の所業《しわざ》と。物を供えて大切《だいじ》にかけたが。それはまだしも処によっては。こいつに悪魔が憑《つ》いたというので。その頃お医者と裁判官の。役目をしていた僧侶《ぼうず》や巫女《みこ》が。見付け次第の指さし次第に。槍《やり》や刀剣《かたな》や、投げ縄、弓矢。棍棒《こんぼう》担《かつ》いだ役人共が。片《かた》っ端《ぱし》から頭を砕いて。手足胴体チリチリバラバラ。焼いて棄てたり樹の根に埋めたり。ちょうどこの節お上《かみ》でなさる。狂犬退治とおんなじ仕置《しお》きじゃ。これが精神病者に対する。最初の診察最初の治療じゃ。キチガイ地獄のイロハのイの字じゃ……スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。これがキチガイ地獄のはじまり。そこで斯様《かよう》に精神病の。原因《もと》が何やら解からぬとこから。出来た迷信邪法を使って。悪い事する奴等が出て来た。しかも余っぽど怜悧《りこう》な奴等じゃ。物の怨《うら》みや嫉妬や毛嫌い。又は政敵、商売|讐仇《がたき》と。道理|外《はず》れた憎しみ猜《そね》みで。彼奴《きゃつ》が邪魔じゃと思うた揚句が。何のおぼえもない人間をば。巫女や坊主や役人|輩《ばら》に。賄賂《わいろ》使うて引っ括《くく》らせます。有無《うむ》を言わさずキチガイ扱い。国の掟《おきて》の死刑にさせます。軽いところで牢屋の住居《すまい》じゃ……チャカポコチャカポコ……
▼あ――ア。軽いところで牢屋の住居じゃ。世界の歴史を調べてみますと。高い身分や爵位や名誉や。又は財産、領地の引継ぎ。女出入りや跡取り世取りの。お家騒動、内輪《うちわ》の揉《も》めから。邪魔な相手を片付けたさに。こうした手段を使った実例《ためし》が。チラリチラリと残っております。ならば今では、どうかと見ますと。おなじ事じゃと云いたいなれども。言えぬどころか、今少《もちっ》と非道《ひど》いよ……スカラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコ……
三
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……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
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▼あアア――ああ……アアア。今は文明開化の御代《みよ》だよ。科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察治療が出来ないなんぞと。ウッカリ云うたら言い出し屁《へ》コキじゃ。そういう奴こそキチガイだろうと。仰言《おっしゃ》るお方が在るかも知れぬが。そういうお方が私は好きだよ。理智と常識、科学の知識を。いつも忘れぬ立派なお方じゃ。そんなお方にお頼みしまする。物は試しじゃお閑暇《ひま》の時分に。ちょっとそこらの精神病院。又は学校、図書館あたりで。世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。キチガイ病気の書物を拡げて。ザット中味を調べて御覧よ
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