が……どうして、そのまんまになっているのですか」
 若林博士はこの時に、又も荘重にうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した、神に祈るような態度で、屈《かが》んだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシッカリと握り合わした。
「その御不審が又、あなたの過去に関する大きな謎を解く鍵の一つとなっているので御座います。つまり正木先生は、あのカレンダーをあそこまで破って来られますと、あとを破ることを止められたのです」
「……そ……それは又なぜ……」
「正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎水族館裏の同じ処で、投身自殺をされたのです」
 ……青天の霹靂《へきれき》……とでも形容しようか。何とも云いようのない奇妙な驚きに打たれた私は、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思う。そうして、やっと気を落付けた時には、譫言《うわごと》のように口を動かしていたように思う。
「……正木先生が……自殺……」
 その声が自分の耳に這入ると私は又、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する……そんな事が果して在り得ようか。
 そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年おきに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな恐ろしい暗合が、果して在り得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士の蒼白い顔を凝視した。
 そうすると若林博士も今までになく、儼然《げんぜん》と姿勢を正して私を凝視し返した。又も、神様に祈るような敬虔な声を出した。
「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。只今お話し致しましたような順序で二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、遂《つい》に、その刀を打ち折り、その箭種《やだね》を射尽《いつ》くされたとでも申しましょうか……どうしても自殺されなければならぬ破目《はめ》に陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今すこし具体的に申しますと、正木先生の独創に係《かかわ》る曠古《こうこ》の精神科学の実験は、貴方とあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られる事になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それが或る思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どうかというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
 と云いさして私は口籠《くちご》もった。形容の出来ない昂奮に全身が青褪《あおざ》めたように感じつつ辛《かろ》うじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
 と若林博士は儼乎《げんこ》たる口調で云い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命を咀《のろ》われるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古《こうこ》の大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計劃を立てて、その研究を進めて来られたのです」
 それは私にとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」
 と云ううちに若林博士は、今まで話片手《はなしかたて》に眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて、恭《うやうや》しく私の前に押し進めた。
 私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように鄭重《ていちょう》な態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容を検《あらた》めてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判|罫紙《けいし》や、新聞の切抜を貼り付けた羅紗紙《らしゃがみ》の綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私はモウ一度パタリと表紙を閉じて、卓子《テーブル》の上に置き直した。
 その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究の中《うち》でも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容を覗《うかが》うのに必要な文献としましては、僅《わずか》にソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易《たやす》く、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。
 ……すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄|外道祭文《げどうさいもん》』と題しまする阿呆陀羅経《あほだらきょう》の歌で、現代に於ける精神病者虐待の実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を初められた、そのそもそもの動機が歌ってあるので御座います。
 ……それから次に羅紗紙《らしゃがみ》の台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記事で御座いますが、その中《うち》でも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛辣《しんらつ》な諧謔《かいぎゃく》交《まじ》りに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、卒直に論証してあります。……又……その次に『脳髄は物を考える処に非《あら》ず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決出来なかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、やすやすと解決して行かれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたもので御座います。
 ……それからその下の方の日本罫紙の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文で御座います。つまり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々の様々の習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の銓衡《せんこう》に一大センセーションを捲き起したのは実に、この一篇に外ならないので御座います。……同時に正木先生が、あれ程の偉材を抱きながら、遂に自決さるるの止むなきに立到りました遠い原因も亦《また》、実にこの一篇の中に胚胎していると申しましょうか……その次に在ります西洋大判罫紙《フールスカップ》の走り書きは、その正木先生がそれ等の研究に、最後の結論を附けるべく書き残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です……ですから貴方は、それ等の書類を、その順序に御覧になりさえすれば、正木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯を賭《と》して研究して行かれた痛快な事蹟が、たやすく、順序正しくおわかりになるで御座いましょう。同時に、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、曠古《こうこ》の大学理の流動、旋転が、一々大光明を発して、万華鏡《まんげきょう》の如く華やかに、グルリグルリと廻転しつつ、あなたの眼の前に……」
 私は若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一|頁《ページ》の標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……


   キチガイ地獄外道祭文[#「キチガイ地獄外道祭文」は本文より5段階大きな文字]
[#ここから9字下げ]
――一名、狂人の暗黒時代――
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから地から3字上げ]
墺国理学博士         
独国哲学博士 面黒楼万児《めんくろうまんじ》 作歌
仏国文学博士         
[#ここで字上げ終わり]

 ▼ああア――アア――あああ。右や左の御方様《おんかたさま》へ。旦那|御新造《ごしんぞ》、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立ち会い衆の皆さん諸君。トントその後は御無沙汰ばっかり。なぞと云うたらビックリなさる。なさる筈だよ三千世界が。出来ぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの道傍《みちばた》に。まかり出《い》でたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
[#ここから1字下げ]
……サアサ寄った寄った。寄ってみてくんなれ。聞いてもくんなれ。話の種だよ。お金は要らない。ホンマの無代償《ただ》だよ。こちらへ寄ったり。押してはいけない。チャカポコチャカポコ……
……サッサ来た来た。来て見てビックリ[#「ビックリ」は太字]……スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ……
[#ここで字下げ終わり]
 ▼ア――あ――。まかり出でたるキチガイ坊主じゃ。背丈《せい》が五尺と一寸そこらで。年の頃なら三十五六の。それが頭がクルクル坊主じゃ。眼玉落ち込み歯は総入歯で。痩《や》せた肋骨《あばら》が洗濯板なる。着ている布子《ぬのこ》が畑の案山子《かかし》よ。足に引きずる草履《ぞうり》と見たれば。泥で固めたカチカチ山だよ。まるで狸の泥舟《どろぶね》まがいじゃ。乞食まがいのケッタイ坊主が。流れ渡って来た国々の。風に晒《さら》され天日《てんぴ》に焼かれて。きょうもおんなじ青天井《あおてんじょう》だよ。道のほとりに鞄《かばん》を拡げて。スカラカ、チャカポコ外聞晒す。曰《いわ》く因縁、故事、来歴をば。たたく木魚に尋ねてみたら……スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……
 ▼ア――あ。曰く因縁、木魚に聞いたら。親子兄弟、親類|眷族《けんぞく》、嬶《かかあ》も妾《めかけ》ももちろん持たない。タッタ一人のスカラカチャンだよ。氏《うじ》も素性《すじょう》もスカラカ、チャカポコ。鞄一つが身上《しんじょう》一つじゃ。親は木の股キラクな風の。吹くに任かせた暢気《のんき》な身の上。流れ渡った世界
前へ 次へ
全94ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング