談として伝えられております。尤《もっと》もこの事は、誰かの口から洩れたと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」
若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽いため息をさせられながらつぶやいた。
「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」
若林博士は、こういった私の質問が耳に這入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままの眉の間の皺《しわ》が一層深くなった。そうして今にも咳が飛出しそうな長い、太い溜息を吐《つ》いたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、私の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた。
「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死をされたのです」
「……エ……変死……」
と私は空虚《うつろ》な声を出した。話の模様があんまり唐突《とっぴ》に変化したのに面喰いながら若林博士の蒼白い顔と、額縁の中の斎藤博士の微笑とを交《かわ》る交る見比べた。そんなにまで人格の高い立派な人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。
しかし若林博士は、そうした私の疑いを押し付けるかのように静かに私の顔を見据えた。又もすこしばかり語気を強めた。
「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は昨、大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、平生《いつも》の通り仕事を片附けて、医局の連中に二三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり筥崎《はこざき》、網屋町《あみやちょう》の自宅には帰られませんでした。そうしてその翌《あく》る朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが、急報によって警察当局や、私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられた事が判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、あすこの石垣の上から落ちられたものであろう……という事になっております。……もっともあの辺は、行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の塵芥捨場《ごみすてば》と、草原《くさはら》と、畠続きの大学裏で、よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいの無い処です。……ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失したものは一つも在りませんでした。……又、遺族の方々や、友人たちのお話を綜合してみますと、斎藤先生が外で酒杯《さかずき》を手にされるのは、学内でも極めて懇意な、気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明している位である。それ以外にタッタ一人でお酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対に無いと云ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたので、その意味でも色々な場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた附近は千代町《ちよまち》方向から長く続いた防波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで踏外《ふみはず》して海へ落ちられたものか、足跡一つ発見出来ませぬ。同伴者の在る無しは勿論のこと、仮りに他殺としましても犯人の手がかりが全然掴めないのです……。
……一方に、只今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人の怨《うら》みを受けられるような事は、まず無いとしか考えられませぬので、結局、やはり過失であろうという事になってしまいました。斎藤先生は滅多に酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのが唯一つの欠点であったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」
「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだ判明《わか》らないのですか」
「……左様……今だに判明致しませぬが、これは余程デリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」
「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければならないでしょう」
「近頃の人達の常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯じゃないですか。それは……」
「……申すまでもない事です」
「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」
「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の所謂《いわゆる》『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気《あっけ》ないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、果して人為のものか、それとも天意に出《い》でたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されました後《のち》でないと、確定的な推測が出来ませぬので……」
「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」
「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」
私は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊《ひょうかい》に、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に惨酷《むご》たらしい『狂人|焚殺《ふんさつ》』の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大|卓子《テーブル》や、その上に欠伸《あくび》をし続けている赤い達磨《だるま》の灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
私は一寸《ちょっと》の間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは斯様《かよう》な仔細《わけ》です」
と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然《ひょうぜん》と参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後で捉《つか》まえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次《とりつい》だのですから、誰一人として総長の斯様《かよう》な遣《や》り方を、異様に思う者はありませんでした。却《かえ》って感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、この間《かん》の消息が詳しく素破抜《すっぱぬ》いてありますが、その時に正木先生は、見窶《みすぼ》らしい紋付《もんつき》、袴《はかま》の姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を云われたものです。
「弱ったなあ。僕は飽《あ》く迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」
と悄《しょ》げ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が……
「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」
と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。
……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文《さいもん》の中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に喚起される事になったのです。同時にその実験を初められた事が機縁となりまして正木先生御自身と、貴方と、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれる事にもなりましたのです。これも矢張《やっぱ》り天意と申せば申されましょうが、……しかしいずれに致しましても斯様《かよう》に偉大な正木先生を、当大学に迎えて、思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の御遺徳に相違御座いません。正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」
私は又も深く歎息して斎藤博士の肖像を仰がずにはいられなかった。これ程の人格者、斎藤博士と、これ程の偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六号室の美少女と、そうして白痴同様の私とを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはおられなかった。
或る感銘深い静寂が、少時《しばらく》の間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、私が何の気もなく発した質問で破られた。
「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下に懸かっているカレンダーの日附は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の日附ですね」
私がこう云って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかった事……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな、白い唇をピッタリと閉じて、顋《あご》をグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイに剥《む》き出して私を睨《にら》み付けた。しかも、それが余りに突然であったために、私も思わず若林博士と同じ表情になって、睨み合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士は次第に落付いて来たらしく、今度は如何にも満足に堪《た》えないという風に額《ひたい》を輝やかして、幾度も幾度もうなずいた。
「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっておりますようで……。実は只今の御質問が出ると同時に、今度こそ貴方の過去の御記憶が、一時に目醒めて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようかと、ちょっと心配致しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一箇月前の日附を示しているので御座います。今日は大正十五年の十一月二十日ですから……」
「それ
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