卸す音がした。……と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大|卓子《テーブル》の縁に置いて、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。
……けれどもこの時……何故だか解らないけれども、私の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとは丸で違った、何ともいえない不愉快な感情が、正木博士の涙声に唆《そそ》られて、腸《はらわた》のドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうする事も出来なかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、殆ど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでも饒舌《しゃべ》るなり、泣くなり勝手になさい。私とは全然無関係の事ですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と云ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみた気持になってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持に変ったか解らなかったが、しかし私はそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、私のそんな気持の変化を気取《けど》られよう筈がなかった。
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