……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言《おっしゃ》れば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
 私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
 若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
 若林博士は斯様《かよう》云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に圧《お》されて、余儀なく項垂《うなだ》れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……
前へ 次へ
全939ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング