はぜ》釣り帰りの二名の男が、海岸に漂着している一個の奇妙な溺死体を発見し、この旨《むね》箱崎署に届出たので万田《まんだ》部長、光川《みつかわ》巡査が出張して取調べたところ、懐中の名刺により正木博士である事が判明したので又々大騒ぎとなり、福岡地方裁判所から熱海判事、松岡書記、福岡警察署より津川警部、長谷川警察医外一名、又、大学側からは若林学部長を初め川路《かわじ》、安楽《あんらく》、太田、西久保の諸教授、田中書記等が現場に駆け付けたが、検案の結果同博士は、同海岸水族館裏手の石垣の上に帽子と葉巻きの吸いさしを置き、診察服を着けたまま手足を狂人用鉄製の手枷足枷《てかせあしかせ》を以て緊縛し、折柄の満潮に身を投じたものらしく、死後約三時間を経過しているので救急の法も施《ほどこ》しようがなかった。而《しか》して右に就いては若林学部長その他関係者一同口を緘《かん》して一語をも洩らさず、前記の大惨事と共に極力秘密裡に葬り去ろうとした模様であるが、本社の機敏なる調査に依って、かく真相が曝露したものである。因《ちな》みに正木博士の自殺原因に就ては遺書等も見当らぬらしく、下宿の書庫机上等も平生の通りに整頓してあって何等の異状をも認めなかったそうである。又飲酒泥酔して下宿に帰り、或《あるい》は散歩と称して外出して帰宅しない事も、従来毎月一二回|宛《ずつ》あった事とて下宿の者も何等怪しまなかったという。


   奇怪な謎[#「奇怪な謎」は本文より4段階大きな文字]
     狂少年の一語[#「狂少年の一語」は本文より4段階大きな文字]

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右に就て同解放治療場の監視人であった甘粕藤太氏は、負傷した胸部に繃帯を施したまま市内|鳥飼《とりかい》村自宅に於てかく語った。
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 全く不意の出来事で、こんな事なら初めからあのような役目を引き受けなければよかったと後悔しています。しかし責任は無論私にあるでしょうし、殊に狂人の解放治療場は昨日限り閉鎖されているそうですから、取り敢《あえ》ず正木先生の手許へ辞表を出して謹んでおります。あれが気違い力というものでしょうか、意想外の強力《ごうりき》で力を入れ切っておりますところへ不意に肩をすかされましたために思わぬ不覚を取りまして二度も気絶して面目次第も御座いません。しかし二度目の気絶からはすぐに覚醒しましたので、私は三名の医員と共に七号病室に駆け付けまして、一郎を取り押えようとしましたが、血に狂った一郎は手にせる鍬《くわ》を竹片《たけぎれ》の如くブンブンと振りまわして「見に来てはいけない見に来てはいけない」と叫びますので、非常に危険で近寄れません。そこへあとから駆け付けられた正木先生の顔を見ると、呉一郎は忽《たちま》ち鎮静しまして、嬉し気に一礼しつつ血に塗《まみ》れて床の上に横たわっている少女シノの半裸体の屍体を指して「お父さん、この間あの石切場で、僕に貸して下すった絵巻物を、も一ペン貸して下さいませんか。こんないいモデルが見つかりましたから……」という奇怪な一語を発しました。これを聞かされた正木先生は何故か非常に昂奮された模様で、今思い出しても物凄いほど真青な顔になって私たちを見まわされましたが、そのまま「何をタワケた事を云うかッ」と大喝されますと、単身呉一郎に組み付いて取押えられたのであります。それから暫くはお顔の色が悪いようでしたが、呉一郎が壁に頭を打付けて絶息しました後《のち》は気力を回復されたらしく、あれ程の大事件のさなかにも拘わらず、快濶《かいかつ》にキビキビと種々《いろいろ》の指図をしておられました。(記者が一郎の蘇生せる旨を告ぐれば)ヘエ。それは本当ですか。私が見ました時は顔中血だらけになっておりましたし、正木先生も急激な脳震盪《のうしんとう》で呼吸も止まっているから迚《とて》も助からぬと云うておられましたが、やはり、手足が不自由なまま、壁に頭を打ち付けたのですから、そう強くなかったのでしょう。(次いで正木博士の自殺を告げ死因に就ての心当りを問えば甘粕氏は愕然蒼白となり流涕《りゅうてい》して唇を震わしつつ)それは本当ですか。本当ならば私はこうしておられません。正木先生には大恩があります。私が先年|亜米利加《アメリカ》で流浪しておりますうちに市俄古《シカゴ》附近で肺炎にかかり誰も構ってくれ手がなくなりましたところを正木先生に拾われまして入院さして頂きました。その時に正木先生はもしこの恩が報じたければ福岡へ住んで俺が帰るのを待っておれと云われまして沢山の旅費まで頂きましたので、帰国|匆々《そうそう》当地の英和学院の柔道師範を奉職していたのですが、正木先生が大学に来られるとすぐに辞職して治療場の監視をお引き受けした位です。正木先生は何でも楽観される方で私も私淑して
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