を取り直しつつそこに佇立していた二名の女に迫り、まず舞踏狂の少女某を畑の隅に追い詰めて眉間を打ち砕き、続いて最前から女王の姿に扮装しつつ平然として場内を逍遥し続けていた年増《としま》女に近づいて行ったが、同女が※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]声《れいせい》一番、「無礼者。妾《わらわ》を知らぬか」と一睨《いちげい》すると、呉一郎は愕然たる面《おも》もちで鍬を控えて立止ったが、「アッ。貴女《あなた》は楊貴妃様」と叫びつつ砂の上に跪座《きざ》した。その時に辛《かろ》うじて意識を回復した甘粕氏は苦痛を忍びつつ起き上り、場《じょう》の入口を開いて逃げ迷うていた狂人たちを外へ出すと、又も安心のためか気が遠くなって打ち倒れた。そのあとから呉一郎も鍬を片手に、片脇には最初の犠牲、浅田シノの死骸を軽々と引き抱えつつ、女王姿の狂女に一礼して流血|淋漓《りんり》たる場内を出で、悠々と自分の病室、七号室に帰って行ったが、皆手を束《つか》ねて戦慄しつつ遠くから傍観するばかりであったという。
狂少年の自殺[#「狂少年の自殺」は本文より5段階大きな文字]
平然たる正木博士[#「平然たる正木博士」は本文より5段階大きな文字]
この時急を聞いて駆け付けた正木博士は、極めて平然たる態度で医員を指揮しつつ暴れ狂う一郎の手からシノの死骸と鍬を奪い取り、一郎に狂人|制御《せいぎょ》用袖無しシャツを着せ、足枷《あしかせ》を加えて七号室に監禁する一方、被害者シノ以下四名の男女患者に応急の手当を施《ほどこ》したが、その中二名の男子患者はいずれも致命傷ではないが生死の程はまだ見込み立たず、又、二名の少女は共に頭蓋骨を粉砕されているので手の下しようなく、この旨《むね》それぞれの近親に急報した。同時に正木博士は単身七号室に引返し、前に監禁した一郎の様子を見に行ったところ、同人は病室の壁に頭を打ち付けて絶息しているのを発見し、急遽《きゅうきょ》医員を呼んだので又も大騒ぎとなった。而《しか》してその騒ぎが一先《ひとま》ず落着し、それぞれの処置を終ると間もなく、正木博士は同教室を出たものらしく、午後二時半頃、医員山田学士が「呉一郎は回復の見込あり」という報告を為《な》すべく、同教授を探しまわった時には、最早《もはや》、同科教室及病院内のどこにも正木博士の姿を発見し得なかったという。
解放治療は[#「解放治療は」は本文より5段階大きな文字]
予想通りの大成功[#「予想通りの大成功」は本文より5段階大きな文字]
と正木博士放言す![#「と正木博士放言す!」は本文より5段階大きな文字]
然《しか》るにその間《かん》に於て正木博士は同大学本部に到り、松原総長に面会して声高に議論していた事実がある。その議論の内容の詳細は判明しないが「狂人の解放治療の実験は今回の出来事に依《よ》って予想通りの大成功に終りました」と繰り返して放言し「同解放治療場は今日限り閉鎖を命じておきました。永々御厄介をかけましたが御蔭《おかげ》で都合よく実験を終りまして感謝に堪えませぬ。(註=同治療場は正木博士が総長の許可を得て、私費を以て開設していたもので、これに附属する雇員等も同博士から直接に給与されていたものである)なお私の辞表は明日提出致します。後《あと》の事は若林学部長に委託してありますから」云々と云い棄てて、呵然《かぜん》大笑しつつ扉《ドア》を押し開き、どこへか立ち去ったとの事で、総長室の隣室で聞いていた事務員連は皆、同教授の発狂を疑いつつ顔を見合わせつつ震え上ったという。
鼾声《かんせい》雷《らい》の如く[#「鼾声《かんせい》雷《らい》の如く」は本文より5段階大きな文字]
酔臥《すいが》して後《のち》行衛を晦《くら》ます[#「酔臥《すいが》して後《のち》行衛を晦《くら》ます」は本文より5段階大きな文字]
正木博士は総長室を出ると無責任にも死傷せる患者を医員連の看護に一任したまま帰途に就いた模様であるが、その途中どこかで飲酒泥酔したらしく、その夕方、福岡市|湊町《みなとまち》の下宿に帰って二三時間のあいだ雷《らい》の如き鼾声《かんせい》を放って熟睡していた。それから同夜九時頃になると「飯喰いに行って来る」と称して飄然《ひょうぜん》として下宿を出でそのまま行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましたとの事であるが、仄聞《そくぶん》するところに依れば窃《ひそ》かに九大精神病科の自室に引返し徹宵《てっしょう》書類を整理していたともいう。
狂人を模倣した[#「狂人を模倣した」は本文より5段階大きな文字]
気味悪い屍体[#「気味悪い屍体」は本文より5段階大きな文字]
然るに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙魚《
前へ
次へ
全235ページ中230ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング