ョロキョロとそこいらを見廻した。
 私はこの室《へや》の中のどこかに、眼に見えぬ奇術師が居て、手品を使っているとしか思えなかった。それとも私の精神が又も変調を起して、何かの幻覚に陥っているのではないか知らんと思い思い、こわごわその号外を取上げて見たが、八ツに折られた新聞紙一頁大の右肩にトテツもない大きな活字で印刷してある標題を読むと思わず「アッ」と叫び声を挙げた。背後の廻転椅子に引っかかってヨロメキ倒れそうになった。
 それは大正十五年の十月二十日……正面の壁のカレンダーが示す斎藤博士の命日の翌日……正木博士が自殺したと若林博士が言ったその日に、福岡市の西海新聞から発行されたもので、頁の左肩には鼻眼鏡を光らして、義歯をクワット剥出《むきだ》した正木博士の笑い顔が、五寸四方位の大きさに目の荒い粗《あら》い写真版で刷り出してあった。


   九大精神病学教授[#「九大精神病学教授」は本文より2段階大きな文字]
    正木博士投身自殺す[#「正木博士投身自殺す」は本文より5段階大きな文字]
      同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有《けう》の惨殺事件曝露す[#「同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有《けう》の惨殺事件曝露す」は本文より1段階大きな文字]


今《こん》二十日午後五時頃、九州帝国大学精神病学教授、従六位医学博士正木敬之氏が溺死体となって、同大学医学部裏手、馬出浜《まえだしはま》、水族館附近の海岸に漂着している事が発見されたので、同大学部内は目下非常な混雑を極めている。然《しか》るにその混雑に依って、その以前の昨十九日正午頃、同精神病学教室に於ける同博士独特の創設に係る「狂人の解放治療場」内に於て、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人に即死、もしくは瀕死の重傷又は軽傷を負わしめ、これを制止せむとした看視人までも重傷せしめた事件が端《はし》なくも曝露したので、大学当局は勿論、司法当事者に於ても狼狽《ろうばい》措《お》くところを識《し》らず、目下極秘密裡に厳重なる調査を進めている。


   狂少年鍬を揮《ふる》って[#「狂少年鍬を揮って」は本文より5段階大きな文字]
     五名の男女を殺傷[#「五名の男女を殺傷」は本文より6段階大きな文字]
          治療場内一面の流血※[#感嘆符三つ、626−10][#「治療場内一面の流血※[#感嘆符三つ、626−10]」は本文より3段階大きな文字]


昨十九日(火曜日)正午頃、事件勃発当時、同科担任教授正木博士は同科教授室に於て午睡しおり、同解放治療場内には平常の通り十名の患者が散在して各自思い思いの狂態を演じつつあったが、その時一隅に畠を耕していた足立儀作(仮名六〇)が午砲と同時に看護婦が昼食を報ずる声を聞いて、使用していた鍬を投げ棄てて病室に去るや、以前から儀作の動静《ようす》を覗《うかが》っていたらしい狂少年、福岡県|早良《さわら》郡|姪《めい》の浜《はま》町一五八六番地農業、呉八代の養子にして同女の甥に当る一郎(二〇)は突然、その鍬を拾い上げて、傍《かたわら》に草を植えていた狂少女、浅田シノ(仮名一七)の後頭部を乱打し、血飛沫《ちしぶき》の中に声も立て得ず絶息せしめた。かくと見た同治療場の監視人で柔道四段の力量を有する甘粕藤太《あまかすとうた》氏は、直ちに急を呼びつつ場内に駆け入ったが、時既に遅く、場内に居った政治狂の某、及《および》、敬神狂の某の二名は、少女シノを救うべく呉一郎に肉迫すると見る間に、前者は横頬を、後者は前額部を呉一郎の鍬の刃先にかけられ、朱《あけ》に染まって砂の上に昏倒した。この時、隙間《すきま》を発見した甘粕氏は一郎の背後から組み付いて、一気に締め落そうと試みたが、一郎の抵抗力意想外に強く、鍬を投げ棄てて甘粕氏の両腕を掴み、体量二十貫の同氏の全身を縦横上下に水車《みずぐるま》の如く振り廻しつつ引き離そうとするので、流石《さすが》の甘粕氏も必死となり、振り離されまいとのみ努力するうち、呉一郎が過《あやま》って狂女の作った落し穴に片足を踏み込んだ拍子に肩を隙《す》かされて同体に倒れると、身を替《かわ》す暇もなく本館軒下の敷石に肋骨を打ち付けて人事不省に陥った。この時同治療場の入口には甘粕氏の声を聞き付けた数名の男看護人、及小使、医員等が駆け付けおり、中には柔道の心得のある者も在ったが、再び治療場の中央に進み出で、落した鍬を拾い上げた呉一郎が、返り血を浴びたまま顔色蒼白となって四辺《あたり》を睥睨《へいげい》しつつ「俺の事業《しごと》を邪魔するかッ」と叫んだ剣幕に呑まれて一人も入場し得なくなった。その間《かん》に場内の一隅に眼を転じた一郎は顔色|忽《たちま》ち旧《もと》に帰り、ニコニコ然と微笑し初め、血に染まった鍬
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