いか》けられているような予感がして、チョット腕時計と電気時計を見較べた。どちらも十二時に四分前である。
 私の手は再び反射的に絵巻物を持ち直して白い処を捲き拡げ始めた。そうして最初の一分間かそこらは、できるだけ冷静に調べて行くつもりであったが、どこまで行っても唯真白いばかりの唐紙の上を一心に見つめて行かなければならぬ事が、判り切っているように思えるので、私は間もなく、涯《はて》しもない白い砂漠を、当《あて》もないのにタッタ一人で旅行させられているような苛立たしさと、馬鹿らしさを感じ初めた。自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。
 それにつれて……かどうか知らないが、呉青秀が一番おしまいに白骨の絵を書いているかも知れない……という推量も怪しくなって来た。
 呉青秀が痴呆状態に陥ったものとすれば、自分が古今無類の馬鹿者であった、当もない忠義立てのために最愛の妻を犬死にさせた……という事を、義妹の芬女の説明でハッキリ思い当った刹那《せつな》に、茫然自失してからの事であろう。そうすればその数分間前、もしくはその数秒前までは正気でいた筈だから、もし云い忘れたのでなければ、一番おしまいに白骨の絵を描いたか如何《どう》かを説明していない筈はない。又、芬女にしてからが同じ事で、自分の恋い慕っている男が、大事な大事な姉を犠牲にして企てた事業の成績品を披《ひら》いて見ながら、千年も経った今日になって赤の他人の私が思い付く位の事を気付かずにいるような事は万に一つもありそうにない……こう思うと私は一遍に気が抜けてゲンナリとしてしまった。
 ……しかし……それでも私は、つまらない一種の惰力みたような、気の抜けた義務心に義務附けられたような気持と、今までの気疲れが一時に出初めてウトウト睡くなって行くような気持とを一緒に感じながら、あと一丈|許《ばか》りもあろうかと思われる白い処を両手で一気に繰り拡げながら、ほんの申訳《もうしわけ》同様に追いかけ追いかけ見て行った。そうしてやっと二丈か三丈位ありそうに思われる長い巻物の白いところを、最終の処まで追い詰めて来ると意外にも、黒い汚染《しみ》のようなものがチラリと見えたので、思わずドキンとして眼を瞠《みは》った。
 よく見ると、それは一番お終《しま》いの紺色の紙に、金絵具で波紋を描いたところから一寸《ちょっと》ばかり離れた個所に、五行に書かれた肉細い、品のいい女文字であった。これが小野鵞堂流《おのがどうりゅう》というのであろうか……

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子を思ふ心の暗《やみ》も照しませ
   ひらけ行く世の智慧のみ光り
[#ここで字下げ終わり]

  明治四十年十一月二十六日
[#地から2字上げ]福岡にて 正木一郎母 千世子
  正木敬之様 みもとに
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………私の頭髪は皆、逆立《さかだ》った……。
 ……慌てて絵巻物を捲き返そうとしたが……手がふるえて取り落した……。
 ……と、その絵巻物がさながら生きているもののように、ひとりでに捲き拡がって、大|卓子《テーブル》の上から床の上に這い落ちて、リノリウムの上をクルクルクルと伸びて行くのを見ているうちに、ゾーッとして来て夢中になった私は、どうして扉《ドア》を開いたか、いつ廊下を走ったか判らぬまま階段を一散に駆け降りて、玄関から外へ飛び出した。
 トタンに非常な大音響が、私を追い散らすかのように、九大構内の松原に轟き渡った。
 それは午砲《ドン》であった。

 それは一つの奇蹟であったとしか思えない……或る目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、私を自由自在に引きずり廻していたとしか思えない。それほどに、不思議な出来事であった。
 私は九大医学部の正門を飛び出して後《のち》、どこをどう歩き廻ったかまるっきり記憶しない。そうして何を目標にして、又もとの九大精神病科の教授室に帰って来たものか全くわからない。
 ……背後から絶叫して来る自動車の警笛を聞いた。眼の前に急停車する電車の唸りに脅かされた。自転車のベルに追い散らされた。叱咤《しった》する人の声や吠えつく犬の声をきいた。グルグル廻る太陽と、前後左右に吹きめぐる風と、戦争のように追いつ追われつする砂ほこりを見た。雲の中からブラ下っている電柱を見た。軒の下まで鮮血を滴《したた》らしている絵看板を見た。地平線の向うが透明な山に続く広い広い平野を眺めた。何千、何万、何億あるか判らぬ夥《おびただ》しい赤煉瓦の堆積の中へ迷い込んだ。その紫色の陰影
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