の中に、手足を蠢《うごめ》かして藻掻《もが》いている孩児《あかんぼ》の幻影《まぼろし》を見た。青澄んだ空の只中を黄色く光って行く飛行機を仰いだ……そのあとから白い輪廓ばかりの死美人の裸体像が六個《むっつ》ほど、行儀よく並んで辷《すべ》って行くのを見た。
人の頭のように……又は眼の形……鼻の恰好……唇の姿なぞ取り取り様々の形に尾を引いて流るる白い雲……黒い雲……黄色い雲……その切れ目切れ目に薬液のように苦々しく澄み渡っている青い青い空……そんなものの下に冴えに冴え返る神経と、入り乱れて火花を散らす感情を包んだ頭の毛を、掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り、掻き乱しつつ……時々飛び上る程の痛みを前額部に感じつつ……眩《まぶ》しさと砂ほこりとでチクチク痛み出した眼をコスリコスリ、どこへ行くのか自分でも判らないまま、無茶苦茶によろめいて行った。
……川……橋……鉄道……赤い鳥居……その赤い鳥居の左右に、青白い顔をして立っている正木博士と若林博士の姿……終《つい》には駆け出したくなるのを押え付け押え付けして歩いて行った。
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…………何もかも真実であった……虚偽の学術研究でも、捏造《ねつぞう》の告白でもなかった。しかも、それは初めから終りまで正木博士がタッタ一人で計画して、実行して来た事ばかりであった。
……若林博士は何でもなかったのだ……。
……若林博士は初めから何も知らずに、正木博士の研究の手先に使われていたのだ。
……正木博士が行った巧妙奇怪を極めた犯罪に魅惑されて、自分から進んで調査をしているうちにいつの間にか正木博士の研究発表の材料を集める役廻りを引受けさせられていたのだ。正木博士が仕掛けておいた蹄係《わな》に美事に引っかかって、スッカリ馬鹿廻《ばかまわ》しにされていたのだ……。
……けれども若林博士はその結論として、あの絵巻物の最終に残されている千世子の筆蹟を発見した。あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべき、唯《ただ》一点を発見して私と同じようにビックリしたに違いない。そうして私と同じように一瞬間の裡《うち》に一切を解決したに違いない。すべてが正木博士の所業《しわざ》である事を発見したに違いないのだ。
……しかしそこで若林博士が執《と》った態度の如何に立派であった事よ……若林博士は、かくして事件の真相を奥の奥の核心まで看破すると同時に、その同窓同郷の友人として、又は学者としての有らん限りの同情と敬意とを正木博士に払うべく決心をしたのであった。そうしてその事件の内容の、要点だけを解らなくした。正しい調査記録を当の本人の正木博士に引き渡して、焼くも棄てるも、その自由に委《まか》した。……又は態々《わざわざ》茶菓子を持たして寄越して、「私は遠くに離れ退《の》いておりますから、どうか御心配なく御自由にお話し下さい」という心持ちを、云わず語らずの中《うち》に知らせたりした。
……「正木博士は一箇月前に自殺した」なぞいうような口から出任せな嘘を吐《つ》いたのも、やっぱりそんな意味の親切気から、立ち聞きをしている正木博士が、あの場面に出て来ないように……そうしてアンナ苦しい破目《はめ》に陥らないように……もしくは回復しかけている私の頭を、又も取り返しのつかぬ混乱に陥らせないように警戒するつもりで云った事であろう……あとで嘘だと判ってもいいつもりで……。
……実に男らしい尊い、申分《もうしぶん》のない紳士的態度を、若林博士は執《と》って来たのであった。
……然《しか》るにこれに反して正木博士は、この実験のために、その全生涯と、全霊魂とを犠牲に供して来たのであった。最初から自分一人でこの伝説に興味を持って、千世子を欺して、子供を生まして、絵巻物を提供させたのであった。そうして一切を顧《かえりみ》ずにこの計画を遂行したのであった。
……けれども千世子が、あの絵巻物を提供する時に、あの和歌と、年月日と、子供の名前と生れた処とを、その父親の名前と一緒に奥付の処に書込んで、意味深長な釘を刺している事を正木博士は夢にも気付かずにいたのだ。世にもミジメに深刻な母性愛と、ステキな才智の結晶とも見るべき彼女の悲しい頭の働らきが、そこまで行き届いていようとは露程《つゆほど》も想像し得なかったのだ。大胆な、眩惑的な、そうして飽く迄も天才的なその事業計画の中心に、唯《ただ》一点、致命的な疎漏《そろう》がある事を考え得なかったのだ。……そうして学術のため、人類のためと思って、神も仏も、血も涙も冷笑し蹂《ふ》み躙《にじ》って行きながらも、尚も、あとから追いかけて来る良心の苛責と人情の切なさに、寝ても醒めても悩まされ抜いて来たのだ……死人に心臓を掴まれたまま、跳ね廻って来たのだ。
……これが正木博士の全生涯な
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