点]、そのために今一人しかおりませぬ小使が[#「そのために今一人しかおりませぬ小使が」に傍点]、足を踏み挫きまして休んでおりますようなことで[#「足を踏み挫きまして休んでおりますようなことで」に傍点]……先生様もお気の毒で御座います……ヘイヘイ……ヘイ……どうぞ御ゆるりと……」
 禿頭《はげあたま》の小使は冷めた方の茶瓶を提《さ》げて、曲った腰を一つヤットコサと伸ばしつつ、ヨチヨチと出て行った。私は、私の魂を喰いに来た鬼が出て行くかのように、その後姿を見送った。

 小使が出て行ったあとの扉《ドア》がガチャガチャと閉まると、私は又、思い出したようにグッタリとなった。長い長いふるえた呼吸《いき》を腹の底から吐き出しながら、大|卓子《テーブル》に両肱を突いた。両掌《りょうて》でシッカリと顔を蔽《おお》うて、指先で強く二つの眼の球《たま》を押えた。頭の芯《しん》が乾燥《ひから》びたような、一種名状の出来ない疲労を覚えると共に、強く押えた眼の球の前にいろいろな幻像があらわれるのを見た。その中を縦横無尽に、電光のように馳けめぐる…… ?《インタロゲーションマーク》 ……を見た。そうしてその…… ?《インタロゲーションマーク》 ……を頭の中で押え付けよう押え付けようと焦燥《あせ》った。
 ……解放治療場の白い砂の光り……?……
 ……そのまん中の枯れ葉を一パイに着けた桐の木……?……
 ……その向うに突立っている呉一郎の姿……?……
 ……その向うの煉瓦塀の上の、屋根の上の、巨大な二本の煙突……?……
 ……その上から吐き出されて行く黒い煤烟《ばいえん》のうねりと、青い青い空の色……?……
 ……白いベッドの上に泣き伏した、白い患者服の少女の姿……?……
 ……緑の平面の上に開いたまま置き忘れられている若林博士の調査書類……?……
 ……紫色に渦巻く葉巻の煙……?……
 ……若林博士の奇妙な微笑……?……
 ……正木博士の鼻眼鏡の反射……?……
 ……?……?……?……?……?……???????……………………
 ……?…………
 私は頭を一つ強く振った。……そんなものをつなぎ合わせて、飽く迄も私を学術の餌食にしようとしている、眼にも見えず、手にも取られぬ因果の網を掻き払うかのように、眼を閉じたまま両手を動かした。
 ……狂人の暗黒時代を背景にして、私を捉えるべく糸を操っているその網の主というのは、学術界に棲息している二匹の大きな毒蜘蛛《どくぐも》である。曠古《こうこ》の精神科学者Mと、無双の名法医学者Wである。……その中でもMが私に投げかけた網の恐ろしかった事……私は今の今まで全力を挙げて抵抗して来た。全身の血を逆行させて、冷たい汗と、熱い涙のあらん限りを絞って闘って来た。そうして何かしらその相手に非常な打撃を与えて追い払ったようであるが、しかし、それと同時に私も力が尽きた。自分の行為の善悪を判断する力はおろか、この大テーブルから離れる元気さえなくなった。精神的にも肉体的にも、再び起つ勇気があるかないかすら解らない位疲れてしまっている。
 ……けれども……けれども私の背後には今一つの強敵が控えている。その強敵Wは、或はこの場の光景までも見透かして、冷笑しているかも知れぬ。それ程に抜け目のない、堅実な網を張って、私が落ち込んで来るのを待ち構えているに違いない。私自身は勿論のこと、あの正木博士すら気付かぬ位巧妙な、行き届いた、偉大な智慧の力でシッカリと私を押え付けて、血も涙も、骨も抜き取って、虚偽と穢《けが》れによって作り上げられた学術の犠牲に供すべく、刻一刻に私の背後から迫りつつある事がヒシヒシと全神経に感じられる。
 ……あの蒼白い、大きな、毛ムクジャラな手に掴まれる位なら、私は正木博士に反抗するのじゃなかった。私は何故かわからぬけれども、若林博士よりも正木博士の方が好きだ。二人とも私を餌食にしようとしている学界の毒蜘蛛であるにしても、私は正木博士の方が何となく懐かしくて親しみ易い気がする。今でも正木博士が引返して来て唯一言……
「吾輩が悪かった……」
 と云ってくれさえすれば、私は一も二もなく喜んで、何もかも忘れて正木博士の奴隷になるかも知れぬ。若林博士の卑怯さを発《あば》いて、正木博士に同情した記録を発表するかも知れぬ。……若林博士のあの蒼白い手で、私の心臓を握られたくないために……。
 しかし……四囲《あたり》はシンとしている。正木博士が引返して来るような音も聞えぬ。……運命を待つよりほかはない。その運命と闘う力をなくしたまま……。
 ああ……どうしよう……。
 私の呼吸が又一しきり胸を圧迫して来た。
 そうして、やがて又、ふるえ、わななきつつ、力無く静まって来た。……身体《からだ》中が空虚になったような……耳の穴の奥だけがシイ―
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