正木博士は、そうしている私の前で、軽い咳払いみたようなものを一つして声を繕《つくろ》った……と思うと今度は調子を改めて、極めて荘重な語気になった。私の頭の上から圧付《おしつ》けるように、一句一句を切って云った。
「……唯……ここに一人……君という人間が居る……」
「……………」
「君は吾輩と若林とに選まれた、この事業の後継者である。……否……吾輩や若林は実を云うと、この事業の最後の成績を社会に公表し得べき資格を持った人間でない。ただそこに居る君だけが、その神聖なる使命を担《にな》うべく選まれて、吾々の前に差遣《さしつか》わされた唯一、無上の天使である。自分でその天命の何たるかを知らない……徹底的に何も知らない……ホントウの意味の純真無垢の青年である」
「……………」
「……というのは、ほかでもない。吾輩も若林も、正直正銘のところを告白すると、この事件の真相をコンナ風に偽った形にして、自分達の手で発表したくない。出来得べくは自分達の死後に、然《しか》るべき第三者の手で、真実の形に直して発表してもらいたい……というのが吾々二人の畢生《ひっせい》の願である。純誠無二の学者としての良心から出た二人の希望である。……だから吾輩と若林とは、云わず語らずのうちに協力一致して、この事件に重大な関係を持っている君の頭脳《あたま》を回復すべく、全力を挙げているのだ。……今にも君が君自身の過去の記憶を回復して、以前の意識状態に立帰り得たならば、必ずやこの仕事の後継者が、君以外に一人もいない事を、明白に自覚してくれるであろう。そうして君が死ぬ程の驚愕と感激の裡《うち》に、この空前絶後の大研究の発表を引受けて、全人類を驚倒、震駭《しんがい》させてくれるであろう……その発表によって太古以来の狂人の闇黒《あんこく》時代を一時に照し破り、全世界のキチガイ地獄をドン底から顛覆、絶滅させて、この唯物科学万能の闇黒世界を、一斉に、精神文化の光明世界にまで引っくり返してくれるであろう。……と同時に、それに引続いて来るべき精神科学応用の犯罪の横行時代を未然に喰い止めて、彼《か》の可憐の一少年呉一郎その他の犠牲を、無用の犠牲として葬り去らないのみならず、全人類の感謝と弔慰とを彼等に捧げさしてくれるであろう……そうして最後に……永劫《えいごう》消ゆる事のない極地の氷のような『冷笑』を、吾々二人の死後の唇に含ませてくれるであろう事を確信しつつ、幾何《いくばく》もない余命を一|刹那《せつな》に縮めつつ、努力しているのだ」
「……………」
「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた註文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎と瓜二つによく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それを又、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って云う。それは吾々二人の間の私的の駆引にこそ凡百《あらゆる》虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微塵《みじん》の虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法にだけ、止《やむ》を得ない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。
 ……だから……これだけは、どこまでも吾々を信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なのだ。すなわち若林の調査書類と、吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召《おぼしめし》によって選まれた無二の資格者である事が、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。一般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るような事があったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶されている筈であるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外に、この仕事の適任者が絶対にいない事を確認するであろう事が、火を睹《み》るよりも明らかに解り切っているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけている事がわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書く事が出来たのだ。
 ……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺戟したからでもなければ、又は、この日が偶然に、斎藤先生の祥月《しょうつき》命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかを観じたからでもない。正直なところを云うと
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