吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄、低級さに、たまらない程うんざりさせられてしまったのだ。
……それもこの出来|損《そこ》ないの世界を、新発明の火薬で爆発させるとか、蛙の卵から人間を孵化させるといったような、一端《いっぱし》、気の利いた研究ならまだしもの事、心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏われて、それこそ地獄の苦しみに堕《お》ちながら、やっと真理の証明が出来たにしても、その報酬として何が残るか。妻子|眷族《けんぞく》に取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。飛んでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液《つば》を吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこの事だ」
「……………」
「……こんな見っともない、ダラシのない結論になって来る事を、今日がきょうまで気付かずに来た吾輩は、つくづく自分の馬鹿さ加減に愛想《あいそ》が尽きたのだ。人間も学者も同時に御免|蒙《こうむ》って、モトのアトムに帰りたくなったのだ。当の相手の前に一切をタタキ付けて……」
「……………」
「……こうした吾輩の現在の気持は、無論、若林の目下のソレとは全然正反対でなければならぬ。若林はあくまでもこの実験を固執して徹底的に吾輩と闘うべく腰を据えているに違いないのだ。……殊に若林は自分自身が結核に取付かれて、余命|幾何《いくばく》もない事を知っている。……だからこの事件の最後の結論の発表を引受るべき君の精神状態が、今朝《けさ》から回復しかけている事を見て取るや否や、頭を刈ってやったり、大学生の服を着せたり、彼女に引会わせたりなぞ、いろんな事をして、出来るだけ早く君自身を呉一郎と認めさして、自分の味方に取付けて、都合のいい発表をしてもらおうと焦燥《あせ》っていたのだ。……否……現在でも君と吾輩の上下左右に、眼に見えぬ網を張詰めて、グングンと自分の方へ手繰《たぐ》り寄せつつあるのだ」
「……………」
「……しかし吾輩は元来そんな面倒な闘いにお相手になる必要はなかったのだ。どうせ自分自身は電子か何かになって、箒星《ほうきぼし》のお先走りでも承《うけたまわ》るつもりでいたし、一切の財産は軽少ながら、この真相の発表に対するお礼の印として、書類と一緒に一旦若林に預けて、君の頭が回復した後《のち》に改めて引渡してもらう考えでいたし、又、発表の内容だって同様に、心理遺伝そのものの大体の要領さえ得ておれば、附録の実例に出て来る事件の犯人の名前なんぞは、どうでもいい……勝手にしやがれという了簡《りょうけん》で、つい今さっきまでいたんだが……。
……しかし、これが前世の業《ごう》とでもいうんだろう……先刻《さっき》から若林が、彼奴《きゃつ》一流の御叮嚀な遣り口で、そろりそろりと催眠術みたような暗示を君に与えながら、自分の勝手のいい方向に、君の頭を引っぱり込もうとしている態度を見ているうちに、吾輩の持って生れた癇《かん》の虫がジリジリして来た。その若林の見え透いた手の中《うち》がゾクゾクする程イヤ味になって来たので、一つ逆襲してやれという気になって、ここへ出て来た訳なんだが……。
……ところが又……こうやって君と話しているうちに……つい今しがたから、何だか又気が変って来たようだ。理屈は兎《と》も角《かく》として、何もかもがヤタラに面倒臭くなって来たようだ。どうせ破れカブレの罰当り仕事だ。後は野となれ山となれだ。何もかも一思いにブチ毀《こわ》してやれという気になって来たようだ……。
……こうなれあ訳はない……。
……吾輩は今日只今即刻に、君とあのモヨ子とを、この病室から解放してやろう。そうしてコンナ書類を残らず焼棄て、玉無《たまな》しにしてくれよう。
……吾輩は断言しておく……。
……あの六号室の少女モヨ子は、あの解放治療場の一角に突立っている美青年の、妻となるべき少女では断然ないのだ。法律上から云っても道徳上から見ても確かに、そこにいる君の未来の妻たるべく運命付けられている女性なんだ。君のベターハーフたるべく、明暮《あけくれ》、身を悶《もだ》えて、恋い焦《こが》れている可憐の少女に相違ない事が、科学的立場から見ても寸分間違いのない事を、若林と吾輩の専門の名誉にかけて誓言しておく。
……同時に吾輩は、吾輩の専門の立場から今一つ、断言しておく……。
……君はそうしない限り……君自身が進んでモヨ子さんとの結婚生活に入ってみない限り、若林と吾輩がイクラ他所《はた》から苦心努力しても、現在の自己障害……『自我忘失
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