を相手にナスリ付けるためにも、極めて完全無欠な、用心に用心を重ねた、必要欠くべからざる条件であった」
 今までコツコツと床の上を歩きまわっていた正木博士は、こう云い切ると同時に、ピタリと立止まった。そこはちょうど東側の壁にかかっている斎藤博士の肖像と「大正十五年十月十九日」の日附を表わしているカレンダーの前である事が、突伏している私によくわかった。そこで正木博士の足音が急に止まると同時に、言葉もプッツリと絶えて、部屋の中が思いがけない静寂に鎖《とざ》されたために、その足音と声ばかりに耳を澄ましていた私は、正木博士が突然にどこかへ消え失せたように感じられた。
 ……が……そう思ったままジッと耳を澄ましていたのは、ほんの二三秒の間であったろう。間もなくヒシヒシと解り初めたその静寂の意味の恐ろしかったこと……。
 ……扨《さて》は……扨《さて》は……と気付く間もなく、私の頭の中に又も、今朝《けさ》からのアラユル疑問が一時に新しく閃《ひら》めき出て来た。思わず両手で頭の毛を掴み締めつつ、次に出て来る正木博士の言葉を、針の尖端のように魘《おび》えつつ待っていた。
 ……十月十九日の秘密……。
 ……その日に発見された斎藤博士の変死体の秘密……。
 ……その斎藤博士の変死に因果された正木博士の精神科教授就任に関する裏面のカラクリの秘密……。
 ……それから一週年目の同月同日に当る昨日《きのう》という日に、正木博士を自殺の決心にまで追い詰めた運命の魔手の秘密……。
 ……その正木博士を奇怪にも、既に一箇月前に自殺していると明言した若林博士の意識|溷濁《こんだく》的、心理状態の秘密……。
 ……そうして……それ等の秘密の裏面に隠れて、それらの秘密の全部を支配しているに違いないであろうモウ一つの大きな秘密……。
 ……すべては唯一人の所業……。
 ……Wか……Mか……。
 ……それが次に発せられるであろう正木博士のタッタ一言によって、電光の如く闡明《せんめい》されはしまいかと思われる……その云い知れぬ恐怖の前の暗黒的な沈黙……静寂……。
 ……けれども正木博士は間もなく、そこから何気もない足取りでコトリコトリと歩き出した。そうして僅かの沈黙の間に、私の恐れていた説明の箇所を飛越《とびこ》して説明を続けた。
「……かくしてMが、この斎藤博士の後任となって九大に着任すると間もなく、この学界空前の実験は決行された。そうしてその結果の全部が、この通り吾輩の前に投出《なげだ》された」
「……………」
「……だから……目下のところWとMの二人は同罪である。同罪でないと云っても、云い免れるだけの証拠がない」
「……………」
「……だから吾輩は覚悟を決めた。そうして君が先刻《さっき》から読んだその心理遺伝の附録の草案によって直方《のうがた》事件の真相までも、すっかり蔽い隠してしまった。ロクロ首や、屍体鬼《しびとつかみ》までも引合いに出して、苦辛惨憺を重ねた結果、学術研究の参考材料として公表しても、無罪と云える程度にまで辻褄《つじつま》を合わせておいた」
「……………」
「……そんな裏面の消息を、唯二人の間の絶対の秘密として葬り去るべく……怨みも、猜《そね》みも忘れて……学術のために……人類のために……」
「……………」
「……これも矢張《やは》り菩提心《ぼだいしん》と云えば云えるであろう。……あの呉一郎の狂うた姿を見て、たまらなくなったからであろう……」
 正木博士の声は、ここまで来ると急に涙に曇りつつ、机の上に突伏したままの私の真正面に近付いて来た。……ドッカリと廻転椅子に腰を卸す音がした。……と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大|卓子《テーブル》の縁に置いて、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。
 ……けれどもこの時……何故だか解らないけれども、私の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとは丸で違った、何ともいえない不愉快な感情が、正木博士の涙声に唆《そそ》られて、腸《はらわた》のドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうする事も出来なかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、殆ど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでも饒舌《しゃべ》るなり、泣くなり勝手になさい。私とは全然無関係の事ですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と云ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみた気持になってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持に変ったか解らなかったが、しかし私はそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、私のそんな気持の変化を気取《けど》られよう筈がなかった。

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