じゃないか」
こうした正木博士の、不可抗的な弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。……が、直ぐに調子を変えて、諭《さと》すような口ぶりになった。
「そんな気の弱い事でどうする。他人の生涯の浮沈に関する重大な秘密を、一旦、聞くと約束して話させておきながら、途中で理由もなしに、モウいいという奴があるか。実際にこの事件と闘っている俺の立場にもなって見ろ……あらゆる不利な立場を切抜けて来た、俺の苦しみを察してみろ……まだまだ恐ろしい事が出て来るんだぞ……これから……」
「……………」
「……いいか……T子もこの事件の第一条件の存在を或る程度までは察していたに違いないのだ。その子のIに『お前が大学校を卒業する迄、私が無事でいたら、何もかも話して上げる』と云ったのは、T子が吾子《わがこ》可愛さの余りに、色々と考えまわした揚句《あげく》に、とうとうそこまで気をまわしていた何よりの証拠だ。つまるところその間《かん》のT子の生活というのは全くの生命《いのち》がけであったに違いないので、一方にはこの呪いから極力Iを遠ざけて、I自身がこの呪いの正体を理解し、且つ警戒し得る頭が出来るまで、何事も話さずに……そんな絵巻物や、物語から来る誘惑を感じさせないようにしてジッと待っていなくてはならないし、一方には、人知れずMの行衛を探し求めて、絵巻物の有無《うむ》を突止めなければならなかった。さもなければ自分の力と工夫で、WとMを突合わせて、何もかも泥を吐かせてしまいたい。この恐ろしい学術の研究慾と、愛慾の葛藤を解消さしてしまいたい。そうして出来る事ならば絵巻物を、自分の手で消滅させておきたい……なぞいうアラユル惨憺たる母性愛を、頭の中に渦巻かせていたに違いないのだ。
……しかし、そのT子の昔の情人は、二人とも二十年来の……否、宿命的の仇讐《あだがたき》同志であった。人情世界の怨敵《おんてき》、学界の怨敵同志であった。そうしてT子|母子《おやこ》を仲に挟んで、お互いにお互いを呪咀《のろ》い合って来た結果、その時はもう二人とも救うべからざる学術の鬼となってしまっていた。……お互いに精神的に噛み殺し合うより外に、生きる道をなくしてしまっている二人であった。……しかもその怨敵を呪咀《のろ》い合う心の、積極と消極の力の限りを合わせて、二人の中《うち》のドチラかの子供であるべきIに、絵巻物の魔力を試みるべく……そうしてその結果を学界に公表する名誉を自分のものにすると同時に、そうした非人道に関する罪責の一切合財を、相手の頸部《くび》に捲き付けるべく、一心不乱に爪牙《つめ》を磨《と》ぎ澄ましている二人であったのだ。その犠牲が誰の児か……なぞいう事は、モウとっくの昔に問題でなくなっていたのだ。ただその児が、確実に呉家の血統を引いた男の児でさえあれば、学術研究上、申分《もうしぶん》ないと思っていただけなのだ」
今度こそは最早《もはや》、とても我慢出来ない戦慄が、私の全身に湧き起った。頭をシッカリと抱えて、緑色の羅紗《らしゃ》の上に突伏した。悽愴たる正木博士の声……解剖刀《メス》のように鋭い言葉の一句一句に全神経を脅やかされつつ……。
「……結果は遂《つい》に来た。二十年前にMが予想していたところに落ちて来た。Mが恐れ、戦《おのの》き、藻掻《もが》き狂いつつ、逃げよう逃げようとしていたその恐ろしいスタートの決勝点に、悪魔的な不可抗力をもって立還《たちかえ》るべく余儀なくされて来た。二十年前に彼《か》の……Mを逐《お》い走らした彼《か》の卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引戻して来たのだ」
私は椅子から飛上って部屋の外へ逃出《にげだ》したかった。けれども私の身体《からだ》は不思議な力で椅子に密着して、ひたすらに戦慄を続けているばかりであった。耳を塞《ふさ》ぐ事すら出来なかった。その私の耳の穴へ正木博士のカスレた声が、一句一句明瞭に飛込んで来た。
「……かくしてこの実験の進行に関する第一の障害……T子の生命《いのち》は、完全に取除《とりのぞ》かれた。WとMとIとの過去を結び付け得る唯一人の証人……Iが誰の児かという事を的確に証言し得ると同時に、この恐ろしい科学実験の遂行者を一言の下に立証し得るであろう『生き証拠』のT子は、予定通り完全な迷宮の中《うち》に葬り去られた。続いて起る問題は、この実験に必要な第二の条件……即ち……Mがこの九州帝国大学、医学部、精神病科教室の教授の椅子に座ることであった。これは換言すればこの実験の結果として、万一追求されるかも知れないであろうその事件の下手人の所在を晦《くら》ますためにも……お互いの秘密を完全に保護して、絶対の安全を保つためにも……又は、そうして適当な時機を見計らってその犯行
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