ンナものが一つも残っていない。戸籍面にも簡単に『父不詳――呉一郎』としか書いてない今日となっては、WとMとが、そのT子との関係を、肯定するのも否定するのも自由自在の勝手次第となっている。況《いわ》んやT子が、WとM以外の男には一人も関係していなかったか、どうかという事は、死んだT子の良心以外に何者が記憶していよう。これを要するにT子の腹に宿った胎児の父親は、T子がこの世に蘇生して来て、明白に証言するか、又は何かに動かすべからざる記録として書き止めていない限り、永久に、絶対にわからず仕舞《じま》いになる外はないのだ。
……その運命の魔神……胎児が出生してみると、それこそ文字通りに玉のような男の児であった。明治四十年十一月の二十二日に、それまで二人が隠れ住んでいた福岡市外の松園《まつぞの》という処の皮革商《かわや》の離座敷《はなれ》で生れたのであったが、その生声《うぶごえ》を聞くと間もなく、今まで隠忍自重していたMは、初めてT子に謎をかけてみた。『呉家の男の児を呪う絵巻物があるそうだが』と持ちかけてみたが、ここのところはチョットWがMにお株を取られた形であった。すると流石《さすが》のT子も初めて知った母親の情でたまらなくなったと見えてスッカリ白状する事になった。その告白に曰《いわ》く……。
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……私は小さい時から本を読んだり、絵を描《か》いたりする事が三度の御飯よりも好きでしたので、物心が付く頃からショッチュウ、たった一人でお寺へ行って、虹汀《こうてい》様が自分でお描《か》きになったという襖の絵や、自分でお彫りになった欄間《らんま》の天人なぞを眺めたり、写したりしていたのですが、そのうちに参詣しに来た村の人や何かが私の居る事を知らないで、御寺の縁起について色々とお話をしているのを聞いて、子供心に非常に感動しました。そうしてソンナお話の中に、この御寺の縁起の事を詳しく書いたものが残っているゲナ。和尚さんが大切に蔵《しま》って御座《ござ》るゲナ。……というような話を聞きますと、それが見たくて見たくてたまらなくなりましたので、人の居ない頃を見計《みはか》らって、絵や何かを見まわる振りをしながら方々を探しておりますと、案の定和尚様のお部屋の本箱の抽出《ひきだ》しから縁起の書附けを見付け出しました。
……それを見ると又、その焼棄てられたという絵巻物が惜しくて惜しくてたまらないような気がしましたので、何心なく本堂に来て、御本尊様をゆすぶって見ますと、どうでしょう。確かに巻物らしいものが這入っているのがコトコトと手に応《こた》えて来ましたので、余りの事にビックリして胸がドキドキしました。
……けれどもこの事を和尚様に話したら一ペンに叱られてしまいましたので、それから一週間ばかり経って後《のち》に、学校の帰りがけにお線香を上げに行く振りをして、御本尊様の首を抜いて、絵巻物を取出して来ました。
……ところがその絵巻物を持って帰って、人の居ない倉庫《おくら》の二階で開いてみますと、思いもかけない怖ろしい、胸がムカムカするような絵ばかりでしたので、私は二度ビックリしまして、直ぐにも御寺に返しに行こうと思いましたが、その時にフト気が付いて絵巻物の表装を見ますと、何ともいえない見事なものなので、返すのが惜しくなりました。そうして、それから後《のち》は一人で留守番をするたんびに、少しずつ裏面《うら》の紙を引き剥《は》いで壊れた幻燈の眼鏡《めがね》で糸の配りを覗いては、絳絹《もみ》の布片《きれ》に写しておりましたが、見付かると大変ですから、作ったものはみんな焼き棄てたり、室見川《むろみがわ》へ流したりしてしまいました。
……そうしてイヨイヨその刺繍の作り方を自分の手に覚え込んでしまいますと、引剥《ひきはが》した紙を旧《もと》の通りに修繕《つくろ》って、絵巻物を御本尊様の胎内に返してしまいましたが、盗む時よりも返す時の方が、よっぽど怖う御座いました……そうして、それから間もなく福岡へ出て来たのですから、絵巻物はやっぱりあの、如月寺《にょげつじ》の弥勒《みろく》様の胎内に在る筈です。
……けれどもこうして吾児《わがこ》というものが出来て見ますと、つくづくあの絵巻物の恐ろしさがわかって来ました。姉のY子でも私のように男の児を生んで、あの絵巻物の在る事を知っているとしましたならば、同じ思いをするにきまっております。虹汀様が、あの絵巻物を焼かれなかった未練なお心を怨むにきまっております。
……とはいえあの絵巻物が在るという事を知っている者は誰もいないのです。たった私一人だけなのです。ですから私の一存で、あの絵巻物を貴方の御学問の研究材料に差上げますから、私の家の血統《ちすじ》を引いた男の児にだけ祟《たた》るという、その恐ろしい、不
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