と、T子のこうしたふしだら[#「ふしだら」に傍点]が、決して尋常一様の浮気から出たものでない事がわかると同時に、その薄情な態度も強《あなが》ちに咎《とが》められなくなる。その浮気の裡面には呉家の血統の継続という痛々しい、悲しい観念が有力に動いていた。それが魔風恋風《まかぜこいかぜ》以来の自由恋愛の風潮に乗って具体化されたものに外《ほか》ならない。かよわい女の判断ながら、出来るだけ人格の正しい、健康な血統《ちすじ》の子孫を設けたいものと、一心に憧憬《あこが》れ願っていた心情がハッキリと首肯《うなず》かれる訳で、T子が家出をした当時に、その界隈の人々が『どうせい自宅《うち》に居て婿どんを探しても、旅烏《たびがらす》のGぐらいの男が関の山じゃろうけに』というような冷評的な噂をしていた事実も、やはり、こうしたT子の心情を裏書きしていたと云うべきであろう。同時にT子が如何に純情と、理智とを兼ね備えた、怜悧そのものともいうべき性格の持主であったかという事実も首肯《うなず》かれる訳で、斯様《かよう》な点から見るとT子は生れながらにして不幸薄命な女性であったとも考えられるようである。
 ……それから、なおここに今一つ、是非とも告白しておかなければならぬ事がある。というのは外《ほか》でもない。最早《もはや》察しているかも知れないがWの血統《ちすじ》と、現在の健康状態に関する秘密を、手紙でT子に密告したのは外ならぬ恋敵のMであった……という事である。これは依然としてT子に対する愛着と、この研究に関する未練を棄て得なかったMが、Wと別行動を執《と》って、T子以外に絵巻物を隠している者がいはしまいかと、色々探索しているうちに、今云ったような村人の噂からT子の心中を推測して、もしやと思って試みた、反間苦肉《はんかんくにく》の密告が図星に当ったものであるが、むろん、これは卑怯とも何とも云いようのない所業《しわざ》で、Wに対して弁解の余地は毛頭《もうとう》ない。況《いわ》んやその手紙をチャンスとして又もT子に接近し初めたに於てをやである。……が……しかし……この時のMの所業《しわざ》の卑怯さが、それから後《のち》、今日までのMの生涯に、どれ程の恐ろしい代償を要求しつつ祟《たた》り続けて来たか……という事実を回顧すると、実に身の毛も竦立《よだ》つばかりである。『因果応報』の研究に志して来た者が、その因果応報の実物に悩まされて、自殺まで決心させられている。その運命の皮肉さ……笑う力もない事を併せてここに告白しておく。
 ……とはいうものの……その時のMが、どうしてそんな将来を予知し得よう。この伝説が含んでいる精神科学的の魅力と、T子の美貌に引かされつつ、学術のためならば後事《あと》はドウなっても構わないという、最初の意気組をそのままに盲進した。そうして半年足らずの間T子と同棲していると、そのうちにT子の姙娠の徴候がだんだんと著しくなって来た。そうしてその年の暑中休暇に入ると間もなく、明らかに胎動が感じられるようになったのであるが……しかも……この胎動こそは、それから後《のち》二十年の長日月に亘って、WとMの二人の運命を徹底的に掌握しようと藻掻《もが》いている或るもの……運命の魔神とでも形容すべきものの胎動であった。WとMの二人の心臓をガッシリと掴んで手玉に取ろうと焦燥《あせ》っている胎児のワインド・アップであった。……精神科学の研究を中心とする血も涙も、義理も人情も超越した邪妖劇……長い長い息苦しい、毒悪不倫劇の中心的な主役を引受けて、登場俳優を片端《かたっぱし》から生死のドタン場にまで飜弄しようとしている運命の魔神の、お目見得《めみえ》の所作に外ならなかったのだ。……ところでその無言の所作が、開幕の皮切りに、大衆に投げかけた疑問というのは『私は誰の児《こ》か』という質問であった。……しかもその当時から今日までの間に、この質問に対して与えられた回答は、有形的にも無形的にも絶無《ノン》という事になっているのである。
 ……無論、この質問に対する回答はWも、Mも持合せている筈である。しかしその回答が、果して確実、動かすべからざる事実に立脚したものかどうかという事は、それから後《のち》に『血液型による親子の鑑別法』の大家となったWも、調査が出来ないでいる筈だ。自分の血液もMの血液もウッカリ取る訳に行かないからね……のみならず一方には、この事実を、何人《なんぴと》よりも明白に証言し得るであろう胎児の母親のT子も、そんな調査が出来ないでいるうちに所謂《いわゆる》『死人に口なし』となってしまって、あとには何等の証拠も残っていない。せめてT子が生前に、その児の父親と認めた人間の苗字を、その児に附けて、何かに書き残してでもいるならば文句もなく面倒もない筈であるが、遺憾ながらソ
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