野《にじの》ミギワなぞいう呉虹汀《くれこうてい》に因《ちな》んだ名前が出て来たりしたので、傍々《かたがた》以てこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのは外でもない。その呉一郎が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……即ち吾々を生んだ年に当るのだ。……いいかい……」
「……………」
「……ところでこれが又、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪しい奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方事件の下手人も其奴《そやつ》に相違ないという事を、この調査書は云いたくて云い得ずにおるように見える。……これが吾輩の所謂《いわゆる》、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちるという千古不磨《せんこふま》の格言のあらわれだ。呉一郎が生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはWとMの二人きりだからね」
私は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙は私を無限の谷底に陥れるように深く、私の胸を打った……と思うと正木博士は又、言葉を続けた。
「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれ[#「おのれ」に傍点]と思ったが弁解の余地がない。しかも呉一郎の血液を検査して誰の子かを決定する法医式鑑定法の世界的権威はWの手中に在る」
正木博士は南側の窓の所で向うむきにハタと立止まった。悄然とうつむいて唾液《つば》を嚥《の》み込んでいるように見えた。
私は又もわななき出した片手を額に当てた。湧き起り湧き起りして来る胴ぶるえを押え付け押え付けしながら片手でシッカリと膝頭を掴んでいた。
正木博士はやがて太い溜息を一つした。恰《あたか》も窓の外を見るのを恐れるかのようにクルリとこっちを向いた。……黙って……うつむいて……心の動揺を落付けるかのように、大|卓子《テーブル》を隔ててコトリコトリと私の前を横切って行った。そうして北側の窓の処で今度は直角に向《むき》を換えて、窓側とスレスレに往復し初めたのであったが、その心持ちうつむいた姿は、眩しい窓の前を通り過ぎる度|毎《ごと》に、チラリチラリとした投影を、私の眼の前の大|卓子《テーブル》の縁に閃《ひら》めかすのであった。
正木博士は又も念入りに咳一咳《がいいちがい》した。
「……今から二十余年前……福岡の県立病院が医科大学に改造されてこの松原に建直《たてなお》された当時の事、その大学の第一回の入学生として這入って来た青年の中に、WとMという二人がいた。その中でもWは法医学、Mは精神病学という…いずれもその当時の医学界で発達の十分でない方向を志しつつ、互いに首席を争い続けていたが、Wは元来の結核系統の家《うち》に生れたせいか、その当時の学生の中《うち》でも一二を争う好男子の偉丈夫で、性質は念に念を入れる神経質の実際家……Mはまたその頃から矮躯《チビ》の醜男《ぶおとこ》で、空想家の早飲込みのドチラかといえば天才肌という風に、各自正反対の特徴を持っていた……それが互いに鎬《しのぎ》を削《けず》って学業の覇《は》を争っていたのであった。
……然《しか》るに今も云う通りWは法医学、Mは精神病学と、その志す最後の目標は違っていたが、唯一の、その頃はまだソンナ名前すら人が知らなかった精神科学方面の研究に対する二人の興味は、一種の宿命であるかのように一致していた。或《あるい》は二人の頭脳の正反対の特徴の極端と極端とが偶然に一致していたせいかも知れないが……とにかくそのために、特に当時のその方面の権威者、斎藤博士に就いて指導を仰ぐ事になった訳であるが、その中でも又、特に専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題に対する二人の研究熱は、殆ど沸騰点を突破しているかの観があった。もっともこれは東洋哲学に造詣《ぞうけい》の深い斎藤先生の指導に影響されたせいでもあるが、その結果、福岡から程遠からぬ所に在るこの有名な、恐ろしい伝説に、二人とも相前後して惹付《ひきつ》けられて行くようになったのは、寧ろ当然の帰結と云うべきであったろう。
……今まで一種の敵愾心《てきがいしん》をもって、どことなく折合いかねていた二人は、この伝説に着眼すると同時に、何もかも忘れて握手してしまった。そうして互いに意見を交換して、この問題に対する研究手段の一般方略をきめた結果、Wは『迷信、伝説の起原と精神異状』といったような比較的|質実《じみ》な方面から……又、これに対するMの方は『Wの研究の結
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