や伝説が絡《まつ》わり付いている程の御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように云い触《ふ》らしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴らしい名画と名文章なのです。嘘だと思われるならば今、ここで御覧になっても宜しい。その上で御不用だったら今一度、私が御預りしても構いません。あすこの高い岩の蔭なら、誰も来はしないでしょう……と云ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に云いまわして好奇心を唆《そそ》るのが一番だと思うね。果せる哉《かな》、呉一郎は美事に蹄係《わな》に引っかかった。岩の蔭で夢中になって絵巻物を繰り展げているうちに、スラリと姿を消して終《しま》うくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。
 ……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方《のうがた》事件に移ると、あの当夜も、WとMは、たしかに福岡市に居たことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、久方振りでこの大学の門を潜って、当時、精神病学教授として存命中であった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会した後《のち》、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやはり蓬莱館に泊る事にした。またWもその当時から今の春吉《はるよし》六番町の広い家に、飯爨婆《めしたきばあ》さん一人を相手の独身生活をやっているんだから、日が暮れてからソッと脱け出して、朝方帰って来る位、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明《アリバイ》を胡魔化《ごまか》すには持って来いの処に居た訳だ。……それかあらぬかその晩の九時頃に一台の新しい箱自動車《セダン》が、曇り空の暗黒を東に衝《つ》いて福岡を出た。乗っている人物は炭坑成金らしい風采で「ちょうど直方へ連絡する汽車が無くなったところへ、急用が出来たものだから止むを得ない。一つ全速力で直方まで遣《や》ってくれ」と云って……」
「……エッ……そ……それじゃあの呉一郎の夢遊病は……」
 正木博士は私の前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。
「……ウソさ……真赤な嘘だよ」
「……………」
 私の脳髄の全部が忽ち煽風機《せんぷうき》のような廻転を初めた。身体《からだ》が自然《おのず》と傾いて一方に倒れそうになったのを、辛《かろ》うじて椅子の肘掛けで支え止めた。
「……あんな夢中遊行があったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒が落ちた説明からして甚だ明瞭を欠いているじゃないか。いずれ手袋を穿《は》めた手を、戸の間から差し入れて指の股で掴もうと試みたものだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……又は難なく無事に外《はず》しておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考える事も出来るが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンに解るから……。それを吾輩が何故《なにゆえ》に夢中遊行病と断定してしまったかという理由も、同時に判明するんだから……」
 私の脳味噌の中の廻転が次第に静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし初めたのを奥歯でギュッと噛み締めながら眼を閉じた。
「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先がいよいよ解らない、恐ろしい事ずくめになって来るんだから……ハハ……」
「……………」
「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わって見ると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人の捜索方法を、ただ呉一郎の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄している事である。……それから今一つは呉一郎の生年月日に就いて特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい……」
「……ところでその呉一郎の年齢に就いて、この調査書には一つの新聞記事の切抜を参考として挿入してあるのであるが、その記事に依ると、呉一郎の母親の千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外|水茶屋《みずぢゃや》の何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間には子供を生まなかったように見える。……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐらいの間だ……という推測が出来る。……但《ただし》、こんな年齢の推定材料の切抜記事は、常識的に考えると、呉一郎が私生児だから、特に念のために挿入したものと考えられるかも知れぬ。又はその当時の話題になっていたこの『美人|後家《ごけ》殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係と睨んでいた新聞記者が、そんなネタを探し出した。ところが又その記事の中に、虹
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