事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事、兼、被告人という一人二役を兼ねた立場になってこの事件の最後の嫌疑者、即ち『W』と『M』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」
 私の直ぐ傍に立佇《たちど》まった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳《がいいちがい》した。
「……まず……呉一郎が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作に陥れられた当時の事から話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎とモヨ子との結婚式の前日には『W』も『M』も姪の浜から程遠からぬこの福岡市内に確かに居た。……Mはまだ九州大学に着任匆々で、下宿が見付からなかったために、博多駅前の蓬莱館《ほうらいかん》という汽車待合兼業の旅宿《はたご》に泊っていたが、この蓬莱館というのはかなりの大きな家《うち》で、部屋の数が多い上に、客の出入りがナカナカ烈しい。おまけに博多一流で客|待遇《あしらい》が乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャンと喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明《アリバイ》の胡魔化《ごまか》しには持って来いの場所だ。……ところでこれに対するWはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立て籠《こも》って勉強ばかりしている。仕事の忙がしい時は内側から鍵をかけていて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴が塞《ふさ》がっている時は、決して外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。こうしたWの神経質は、小使や友人は勿論の事、新聞記者仲間でも評判になっている位だから、これも現場不在証明《アリバイ》の製造には最も便利な習慣だ。
 ……サア又、一方に……呉一郎が、結婚式の前日に出席する筈になっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や、時刻は、新聞に気を付けておればキットわかる。呉一郎が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、著しい習慣だから、前以て調査しておれば直ぐに気が付く……そこで石切場に働いている石切男《いしや》の一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二三日か一週間も休ませて、その隙《すき》に仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌《コレラ》とか、赤痢《せきり》とかいう流行病の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈には頗《すこぶ》る便利な訳だと思う。とにかく微塵《みじん》も狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。
 ……次に当日、呉一郎が福岡市の出外《ではず》れの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃《たんぼ》に挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背恰好までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴方《あなた》の亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方がお幼少《ちいさ》いうちに、貴方の事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事がありました。そのお約束を果すために、斯様《かよう》な処でお待ち受けしていたのです……テナ事を云えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中《うち》に置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、最早《もう》、明日《あした》からは貴方が一軒の御家庭の主人公になられると承《うけたまわ》りましたから、御返却《おかえ》しに参りました。つまり貴方が、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれなければならぬ品物で、貴方の遠い御先祖に当る或る御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これに就ては色々な恐ろしい噂
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