いるうちに私の呼吸がだんだんと静まって来た。そうして吾にもあらず眼を伏せて、頭を低《た》れてしまったのであった。
「……犯人は俺だよ……」
と博士は空洞《ほらあな》の中で呟《つぶや》くような声で云った。
私は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑を漾《ただよ》わしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。
……私の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ初めたような……。
私はヒッソリと眼を閉じた。わななく指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたく濡れている。その耳元に正木博士の悄然《しょうぜん》たる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならば止むを得ない。一切を打明けよう」
「……………」
「何を隠そう。吾輩は夙《と》うから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明かに認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」
「……………」
「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方《のうがた》で起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密な人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に這入るように、故意に呉一郎が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」
正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私は又もビクリとさせられたが、それでも顔を上げる事が出来なかった。正木博士が吐き出す一句一句の重大さに、圧《お》しかかられたようになって……。
「……その犯行の目的というのは外でもない。呉一郎を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母の手によって姪の浜へ連れて来させるにある……モヨ子は姪の浜小町と唄われている程の美人だから、とやかく思っている者が、その界隈《かいわい》に多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来の所在地で、大部分の住民は多小に拘わらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎とモヨ子の縁組は、九十九パーセントまで外《はず》れる気遣いがないのだから、この実験を試みるにも、又は、その跡を晦《くら》ますにも、この姪の浜以上に適当な処はない訳である」
「……………」
「……だから第二回の姪の浜事件というのも、決して神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計劃通り、或る人間が、石切場附近で呉一郎の帰りを待伏せて、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方と、姪の浜の二つの事件は、或る一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計劃されたものである。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と、興味とを併《あわ》せ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機……すなわち被害者、呉一郎が或る大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古《こうこ》の学術実験を行った……と云えば、吾輩より以外《ほか》に誰があるか……」
「ありますッ……」
私は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカ――ッと充血した。全身の骨と筋肉が、力に満ち満ちて戦《おのの》いた。愕然としている正木博士の鼻眼鏡を睨み付けた。
「……ワ……ワ……若林……」
「馬鹿ッ……」
という大喝が木魂《こだま》返しに正木博士の口から迸《ほとばし》り出た。同時に黒い、凹《くぼ》んだ眼でジリジリと私を睨み据えた。……がその真黒い眼の光りの強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天を衝《つ》くばかりの勢《いきおい》であった私は一たまりもなく慄《ふる》え上った。ヨロヨロと背後《うしろ》によろめく間もなくドタリと椅子に尻餅を突いた。その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けられたまま……。
「……馬鹿ッ……」
私は左右の耳朶《みみたぼ》に火が附いたように感じつつ、ガックリと低頭《うなだ》れた。
「……無考《むかんが》えにも程がある……」
その声は私の頭の上から大磐石《だいばんじゃく》のように圧《お》しかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底に籠《こも》っていた。
私は又、何故ともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら……。
「……これ程の恐ろしい実験を、ここまで突込んで行《や》り得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうという事は誰でも考え得る事じゃないか。又それがわかればその人
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