世子の仇敵《かたき》を取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、又、犯人が如何なる人間であろうとも驚きませんが……いいですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人《きちがい》地獄に陥れられて、一生涯、飼い殺しにされているなんて……僕にはトテモ我慢が出来ないのですから……」
「ウン……まあやって見るさ」
 正木博士は如何にも気のなさそうにこう云った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた、一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。
 私は今一度座り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。
「……いいですか先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮りにこの犯人が僕でないとすればですね。まさか村の者の云うように、この絵巻物がひとり手に弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に落ちるような事は、有り得る筈がないでしょう」
「……ウフン……」
「……又……伯母の八代子と、母の千世子も、呉一郎をこの上もなく愛して、便《たよ》り縋《すが》りにしている女ですから、こんな恐ろしい云い伝えのある絵巻物を呉一郎に見せる筈はありますまい。雇人《やといにん》の仙五郎という爺《じじい》も、そんな事をする人間ではないようです。……お寺の坊さんは又、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があると判ったら却《かえ》って隠す位でしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者がある筈です」
「……ウフン。自然、そういう事になる訳だね」
 正木博士は変な粘《ねば》っこい口調で、不承不承にこう云った。それからチョット眼を開《あ》いて私を見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなく又、もとの通りにピッタリと閉じた。
 私は一層|急《せ》き込んだ。
「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当りが、調べてあるんですね」
「……ないようだ」
「……エッ……一つも……」
「……ウ……ウン……」
「……じゃ……その他の事は、みんな念入りに調べてあるんですか」
「……ウ……ウン……」
「……何故ですか……それは……」
「……ウ……ウン……」
 正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたまま私は唖然となった。
「……そ……そ……それは怪訝《おか》しいじゃないですか先生……犯人の事をお留守にして、他の事ばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。ねえ先生……」
「……………」
「……ねえ先生……たとい悪戯《いたずら》にしろ何にしろ、これ程に残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかに在り得ましょうか。……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかも解らなくなる。又、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳上の罪までも胡魔化《ごまか》せるかも知れないというのですから、これ位アクドイ、残酷な悪戯《いたずら》は又と在るまいと思われるじゃないですか先生……」
「……ウ……フン……」
「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えても怪訝《おか》しいじゃないですか」
「……ウ……フン。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎か、僕かの頭を回復さして、犯人を指示《ゆびさ》させるより他に方法はないのでしょうか……先生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」
「……ないよ……」
 正木博士は乞食を断るように、面倒臭そうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。私はグイと唾液《つば》を嚥込《のみこ》んだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的というのは何でしょうか」
「……ウ……ウン……」
「ほんとうの心から出た親切か……又は悪戯《いたずら》か……恋の遺恨か……何かの咀《のろ》いか……それとも……それとも……」
 私はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。
 博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いて私を見た。心持ち蒼い顔に、黒い瞳を凝然《じっ》と据えたまま静かに部屋の入口を振返った……が、やがて又おもむろに私の方へ向き直ると、やおら椅子の上に居住居《いずまい》を正した。
 その黒い瞳《め》は博士独特の鋭い光りを失って、何ともいえない柔らかい静けさを帯びていた。その態度にも今までの横着な、図々しい感じが全くなくなっていた。見る見る一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何ともいえず淋しい、悲しい心持を肩のあたりに見せている。その態度を見て
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