は、どうでもいいんです。……その犯人を突止めて八裂《やつざき》にでもしなければ、浮かばれない人間がイクラでもいるじゃないですか。八代子だって、モヨ子だって、又あの呉一郎だって……僕も連累《まきぞえ》を喰っているんなら僕もです。……何の罪も科《とが》も無いのに、殺される以上の残虐を受けているじゃないですか」
「……フン……それで……」
と色も味もなく云い棄てたまま正木博士は、自分の吹いた煙の行衛《ゆくえ》をウットリと見送った。私は自分の魂を吐き出すような気持で云った。
「……それで、僕の魂がもし、この身体《からだ》を脱け出せるものなら、僕は今でも、或る一人に乗り移ってその人間の記憶に残っている犯人の名前を怒鳴ってやります。白昼の大道で、公表してやります。死ぬが死ぬまでその犯人に跟随《くっつ》いて行って、殺す以上の復讐をしてやります」
「……フーン。左様《さよう》願えたら面白いがね。しかし誰に乗り移ろうと云うんだい」
「誰って……わかり切ってるじゃありませんか。犯人の顔を直接に見知っている呉一郎がいるじゃありませんか」
「ハッハッハッ。こいつは面白いな、遠慮なく乗り移るがいい。しかしマンマと首尾よく乗り移れたらお手拍子喝采どころじゃない。吾輩の精神科学の研究は全部遣り直しだよ。魂が『乗り移る』とか『取り憑《つ》く』とか『生れ変る』とかいう事実は、その本人の『心理遺伝』の作用以外の何ものでもないというのが、吾輩の学説の中でも、最重要な一箇条になっているんだからね。……フン……」
「それは解っています。しかし仮令《たとい》、先生の方で犯人に用がなくとも、若林先生の方では用があるでしょう。若林先生が、貴方にこの調査書類を引渡されたのは、その最後の一点を、呉一郎の過去の記憶の中から取出して頂きたいばっかりが目的じゃなかったですか」
「それはそうだ。百も承知だ。今朝《けさ》から吾輩と若林が、君をこの部屋に引張り込んで、色々と試みた実験も、帰するところ、同じ目的一つのために外《ほか》ならなかったんだが……しかし吾輩は最早《もう》、これ以上にこの事件の真相を突込んで行きたくないのだ。その理由は、犯人の名前が判明《わか》ると同時にわかるんだがね」
正木博士は又も長々と煙を吹き上げて空嘯《そらうそぶ》いた。私はその顎を睨みつつ腕を組んだ。
「それじゃ、僕が勝手にこの犯人を探し出すのは、お差支えありませんね」
「それは無論、君の自由だ。御随意に遊ばせだが……」
「ありがとう御座います。それじゃ済みませんが、僕を此病院《ここ》から解放して下さい。ちょっと出かけて来たいのですから……」
と云ううちに私は立上って、卓子《テーブル》の端に両手を支《つ》いてお辞儀をした。しかし正木博士は平気でいた。お辞儀を返そうともしないまま悠々と椅子に踏反《ふんぞ》り返って、葉巻の煙を思い切り高々と吹上げた。
「出かけるって、どこへ出かけるんだい」
「どこだか、まだ考えていませんけど……帰って来る迄には事件の真相を根こそげ抉《えぐ》り付けてお眼にかけます」
「フフン。抉り付けて胆を潰《つぶ》すなよ」
「……エッ……」
「この絵巻物の神秘は、お互いに破らない方がよかろうぜ」
「……………」
私は思わず立竦《たちすく》んだ。そういう正木博士の態度の中には、私を押え付けて動かさない或る力が満ち満ちていた。……曠古《こうこ》の大事業……空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、嘘か本当か自殺の決心までさせられながら、それを片《かた》ッ端《ぱし》から茶化《ちゃか》してしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるように私は又、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居住居《いずまい》を正した。
「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか先生……」
正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落して、グズグズと椅子の中に屈《かが》まり込み初めた。短かくなった葉巻を灰落しの達磨《だるま》の口へ突込んで、背中を丸めて、卓子《テーブル》に頬杖を突いたが、その時にジロリと私を見た狡猾《ずる》そうな眼付と、鼻の横に浮かんだ小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振《けぶり》を見せた。
私は思わず身体《からだ》を乗り出した。身体中の皮膚が火照《ほて》るほどの異状な昂奮に包まれてしまった。
「いいですか先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手な処でその名前を発表しますよ。そうして呉一郎を初め、モヨ子、八代子、千
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