間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されない事も、直ぐに考え付く筈じゃないか。……何という軽率さだ」
「……………」
「況《いわ》んや本人は既に……一切を自白している」
「……エッ……エッ……」
私は愕然として顔を上げた。
見ると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か知らず、或る神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、私は又も頭を垂れてしまった。
「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」
……スラリ……と冷めたいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。
「……君はまだ犯罪の隠蔽心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておき給え。人間の智慧が進むに連れて……又は社会機構が、複雑過敏になって来るに連れて、こんな恐ろしい犯罪心理が、有触《ありふ》れたものと成って来るに、きまっているんだから……よろしいか……」
「……………」
「……この調査書が如何に恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、如何に深刻な、眩惑的な、水も洩らさぬ魔力をもって吾輩に、この罪を引受るべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」
私は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固って行くのを感じた。両眼の視線は又も、眼の前に横たわる緑色の羅紗《らしゃ》に吸い寄せられて、動かす事が出来なくなった。
その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。
「……仮りに或る人間が一つの、罪を犯したとすると、その罪は、如何に完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消す事が出来ないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、止むを得ないので、誰でも軽蔑する位よく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿[#「記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿」に傍点]なるものは、常に、五分も隙《すき》のない名探偵の威嚇力[#「名探偵の威嚇力」に傍点]と、絶対に逃れ途《みち》のない共犯者の脅迫力[#「共犯者の脅迫力」に傍点]とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際《まぎわ》まで、人知れず犯人に附纏《つきまと》って来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言っても宜《い》い位、その恐ろしさが徹底している。世俗に所謂《いわゆる》、『良心の苛責』なるものは、畢竟《ひっきょう》するところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外《ほか》ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺して了《しま》うより外に方法はない……という事になるのだ。
……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいい程、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段が又、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、生憎《あいにく》な事に、この『記憶の鏡』という代物《しろもの》は、周囲を暗くすればする程、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればする程、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかもそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をした揚句《あげく》、やり切れなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうするとその鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれる事になる……こんな事が度重なるうちに、とうとう遣り切れなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ』……と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。
……又は、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苛責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』
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