込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎の治療順序の説明だ。狂人の解放治療というのは、そういう風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前に外ならないのだ。
 ……勿論こうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。些《すくな》くとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄な外科や内科の療法を応用したり、そいつが巧く当らなかった時には縛り上げたり、監禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今後の世界に於て行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖昧《あやふや》なもんじゃない。即ち精神というものの解剖、生理、病理の原則を、心理遺伝の学理に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放な一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行発作が、如何に推移し変化しつつ在るかを隅から隅まで看破しつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。
 ……ところで、話を前に戻すと、それから後一個月の間、呉一郎が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じ籠もってばかりいたのは、その間《かん》に色んな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにして次第次第に夜が明けるように蘇《よみがえ》りはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今はいつで、俺は何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、何のためにこんな処に閉籠《とじこ》められているんだろう』といった風にネ……それに連れて又、それに伴う色んな疑問や不可解が、雲の如く渦巻き起って、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大洩らさず病床日誌に記録させてあるから、それに就いて観察して見れば、その迷い具合が手に取る如くわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような観念が呉一郎の頭の中で、次第に一つの焦点に統一されて、余程、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えても解らないが、いずれその中《うち》に解るだろう』というような、一種の諦らめに似た安心が付いて来たらしく見える。……というのは一箇月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなり非道い憂鬱状態に陥っていた。食慾が非常に減退して排泄の具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧来《もと》以上になっている事が、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあのとおり、ステキに良《い》い栄養状態で、精神状態も頗《すこぶ》る明朗になったらしく、アンナにニコニコしている訳なのだ。
 ……そうして昨日《きのう》まで部屋に閉じ籠もっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段落のところまで落付いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭を擡《もた》げて来た性慾の刺戟が、以前の変態にまで高潮して来たので、又もあの鍬を振廻しに出て来たのか……という事は、もう暫く模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎の精神状態の回復はここいらで、又、一転機を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」
 私はこんな言葉や笑い声を、耳には慥《たし》かに聞いていた。……窓の下で又も、何やら唄い出している舞踏狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心に大|卓子《テーブル》の燃え上るような緑色を見詰めていた。
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……如何なる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探って見よ……
[#ここで字下げ終わり]
 と云った正木博士の言葉を頭の中で繰返しつつ……。その時に正木博士の言葉が途絶《とだ》えて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げてみると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。
「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていた事が解るだろう。同時に、吾輩のこの解放治療の実験が、如何に素晴らしい、学界空前の……」
「ちょっと待って下さい」
 私は右手を揚
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