一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、私は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であった。……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持になって……それに連れて全身がどことなく冷え冷えと汗を掻いているのに気が附いた。
 私はそのまま今一度ホッとして問うた。
「しかし……あの呉一郎の頭は……治りましょうか」
「呉一郎の頭かね。それあ回復するとも……吾輩には自信がある」
 こう云い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。私の顔を透《す》かして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。
「あの呉一郎の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」
 私は又しても呉一郎と同一人[#「呉一郎と同一人」に傍点]という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過を執《と》って回復して行きつつあるような正木博士の口吻《くちぶり》に、云い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔を拭いて又問うた。
「ハア……でも仲々困難でしょうね」
「ナニ訳はない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的に判然しておれば治療《なお》す方法もチャントわかって来る。殊にこの呉一郎みたように、原因のハッキリした精神異状が、治癒《なお》らなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」
「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」
「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁厭《まじない》とか御祈祷とかいうような非科学的なものじゃない。……つまり今まで話して来たように呉一郎は、黴毒《ばいどく》とか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂したんだ。すなわちこの絵巻物を見た後《のち》の呉一郎は、時間も、空間も、呉一郎も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極めた支那一流の変態性慾の刺戟と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚、倒錯観念ばかりで生きる事になったんだ。そうしてその変態性慾も亦《また》、呉青秀が一千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、遂《つい》にはただ『女の屍体が見たい』というような単純な、且つ、率直な慾望だけになっている事が、その解放治療場内に於ける夢中遊行の状態で察せられるようになった。……呉一郎の遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾……すなわち一千年前の呉青秀の怨霊の眼で見ると、世界中、到る処の土の下には、女の死体がベタ一面に匿《かく》されているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬が欲しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返す事になったのだ。
 ……こうしてその、時間も空間も超越した変態性慾の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、迫々《おいおい》と屁古垂《へこた》れて来た。人間の性慾の刺戟を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺戟液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されて終《しま》うのだからね。そんな性慾の刺戟をダンダン感じなくなって、唯、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮出して来る女の屍体の幻覚に釣られながら、喘《あえ》ぎ喘ぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性慾の怨霊が、消え消えになって来たお蔭で、その下から……ああ苦しい。遣り切れない。いったい俺は、どうしてコンナに非道《ひど》い労働を続けなければならないのだろう……といったような、正気に近い意識が次第次第に浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリとそこいらを見まわしては又、思い出したように仕事にかかるらしい気振《けぶり》が見えて来た。その潮合《しおあ》いを見て、吾輩が出て行って、その眼の底に在る疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底に在る理智的の意識力とをピッタリと合わせながら『その女の屍体が、土の底に埋まったのはいつの事だ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それに連れて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし初めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったような自己意識も、それにつれて頭を擡《もた》げて来たので、何となく不可思議な淋しい気持になった。悲し気に頸低《うなだ》れると、今まで大切に抱えていた鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引
前へ 次へ
全235ページ中192ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング